薄墨

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8/3/2024, 1:42:19 PM

肌に張り付いたシーツを、慎重に剥がして起き上がる。
掛け布団がずり落ちる。

横ではまだ、あの子が柔らかな布団に包まれて眠りこけている。
頬をシーツにくっつけて、安心しきった、疲れきったように口を半分開けて、規則正しい寝息を立てている。

そっと一束の髪を梳く。
さらりとした髪が指の間をすり抜けてゆく。

そんなつもりじゃなかったなんて、今じゃもう体のいい言い訳だ。
それでも目が覚めるまでに、私は立ち去らなくてはならなかった。

私とあの子は一緒に実在できないのだから。
私とあの子は住む世界が違うのだから。

昨日の夜、あの子は相当荒れていた。
実在する人間の声も、幻想の中の私たちの声も、あの子には届かなかった。

轟々と泣きながら、あの子は幻想の私を引き摺り出して、そのままベッドに引き込んだ。
…そこから後のことは、私の記憶は曖昧だ。
なんだかよく分からないままにそのうち、心地よい疲労感がやってきて、そこが冷えたような冷たさと怠い温かさを感じながら目を閉じて……

目が覚めたら、横であの子が寝ていた。

私も馬鹿じゃない。
いくら私が肉体を捨てた存在だとしても。
いくら私が人の想像の中にしか存在しないものだったとしても。
いくら私が魂だけの存在であっても。

…この状況の意味するところは分かった。

あの子が私たちを現実の友人だと思い込み始めたのはいつだっただろう。
あの子が私を、親友と呼んだのはいつだったろう。
あの子が私に熱の籠った瞳で笑いかけるようになったのはいつだったろう。

いつ、私が消えていたらこうなることを防げたのだろう。

ここはあの子の病室。
心と感情がすっかり壊れてしまったあの子の。
あの子の幻想の中の、私の先輩は、遠い目をして、そうとだけ教えてくれた。

白い掛け布団が微かに上下する。
あの子の体だ。あの子の呼吸だ。

あの子の目が覚めるまでに、私は消えなくてはいけない。

私は幻想の友人ではなくなってしまったから。
私はあの子の現実を知ってしまったから。
このまま残れば、きっと私は、あの子の拠り所になってしまう。
実在しないのに。

だから私は消えなくちゃいけない。
目が覚めるまでに。

シーツを剥ぐ。
腕をゆっくり抜く。
最期に見たあの子の寝顔は、危うくて、儚くて…でもいつもよりずっと穏やかだった。

8/2/2024, 12:25:05 PM

377号室の患者さんは、厄介な患者さんだった。

壊死で入院された方だった。
あの日、ドクターヘリで担ぎ込まれた何人かのうちの一人で、その中でも特に損傷の重かった彼は、緊急で手術室を割り当てられた?
雪山で同行者に裏切られたのだ、と口癖のように言っていた。

起きた彼は何も信じなかった。
リハビリも点滴も何もかも、とりあえず拒否して、体をこわばらせていた。

彼だけが個室の病室に入れられたのも、彼が安心できるよう、担当の看護師が一人専属で割り当てられたのも、そのせいだった。

私は彼を世話するように頼まれた。
彼が信頼できる人間となって、彼の治療を円滑に行うこと。それが私に課された使命だった。

彼は厄介な人だった。
病室なんかは、一度懐疑的に見れば、なんでも怪しく見える。
彼を宥めるのは大変だった。
日の浅いうちは、暴言を吐かれたり、物を投げられたりすることもあった。
痣が絶えなかった。

彼は臆病だったのだ。

病室の端にうずくまり、怯えと警戒の色をした瞳だけをぎょろぎょろと光らせ、精一杯体を引いて必死にこちらを拒む様子は、まるで虐待された愛玩動物か、弱った野生動物のようだった。

私は、そういう瞳が、強張った顔が、好きだった。

それはただの個人的な趣味で私的なこと。
それを仕事の質と権限に影響させるつもりは全然なかった。

彼は徐々に心を開いた。
人間不信もトラウマも改善の兆しを見せた。
瞳の中の怯えと警戒は、ゆっくりと薄れていった。
代わりに、彼の瞳の中に灯る信頼と安堵とが、私の瞳にありありと映るようになった。

彼が眠るまで、病室にいたことがあった。
彼が落ち着くまで、背中をさすったこともあった。
彼が泣くのを、じっと聞いていたこともあった。
仕事のために。使命のために。彼を救うために。

退院のその時、主治医に頭を下げて顔を上げた彼は、私を見上げていた。
怯えと不安の混じった瞳で。
微かに震えた声で、これからどうすればいいんだ、と聞こえた。

退院は喜ばしいことだ。
病室が空くことは、死であれ退院であれ、患者さんが自分の足で次の一歩を踏み出した、進む兆しだ。
でも、彼の場合は、本当に前に進めたのだろうか。

前に進めなかったごく一部の患者さんは、何度も入退院を繰り返すことがある。
ミュンヒハウゼン症候群。
外科の私たちには専門外の、私たちには救えない患者さんたち。

それでも、患者さんが怪我をしたら、私たちは少なくともその怪我が治るまでは、入院してもらわなくてはならない。
それが彼らを足踏みさせているのだと知っていても。

彼はいずれまた戻ってくるだろう。
私は最後まで彼を救えなかった。

病室の掃除は、今も私が担当している。
377号室は、まだ空いている。

377号室の患者さんは、厄介な患者さんだ。

8/1/2024, 2:09:07 PM

明日、もし晴れたら。
火をつけに行こう、町の外れに。

窓を開ける。
むわっとした熱気が飛び込んでくる。
今日は、抜けるような青い空だ。
真っ青な空を、翼を持つ獣がぱたぱたと羽音を立てて飛んでゆく。

明日、もし晴れたら。
火をつけに行こう、終わりに向けて始めるために。
旅を始めるために。

夏の虫の声がうるさい。
五月の虫よりもずっと。

テーブルの上に置いていた新聞が音を立てて落ちる。
今日の地方新聞。
いつも通り、様々な事件の記事が並ぶ。
三面の左下に、小さく、禁足地域の住人の処理状況が報道されている。

魔物がいるこの世界の王国には、地域によって明確な格差があった。
最も酷いのは、魔物の巣窟のすぐそばに住む村の暮らし。

そこでは魔物を操り、魔物と共に生きる人がいる…らしい。
しかし、その村は禁足地だった。
虐げられし者たちの村だった。

なぜなら魔物は、_少なくともこの王国では_人類の敵とされていたから。

だから、私の慕っていた姉弟子は、勇者として、魔物の王を討伐しに旅立ったのだ。

それほど強くもなく、冒険も荒事も得意でなかった私は、強く正しく清い姉弟子たちを眩しく見送った。
そして、私は書籍管理者としての職務を全うしていた。

禁足地域の資料を見つけたのはたまたまだった。

それはたくさんの書籍を保管する書館の一角に、ひっそりと置かれていた。

禁足地域の人々は魔物と共生していること。
禁足地域の人々にとって、魔物と人間の境界は紙一重で、人間が魔物となることもあるし、魔物と人間の合いの子すら珍しくないのだということ。
禁足地域の人々と魔物を恐れて、王国は彼の地を征服した時に身勝手で厳しい法律、社会カーストと税、差別を課したということ。

そのせいで禁足地域の村は未だに争いが絶えず、惨めで酷い光景が広がっているということ…。

魔物の王は魔王と呼ばれている。
魔王は狡賢く、強靭で、支配的で、人類を脅かすほどのリーダーらしい。

…魔王は本当に魔物なのだろうか。
禁足地域の村人が、この国の支配から抜け出すために魔物となって、この王国を滅ぼそうとしているのが魔王なのではないか。

…私の姉弟子は、魔物を討伐しに行くのだろうか。
……禁足地域の哀れな人間を反逆者として殺しに行くのではないのか。

私は姉弟子を慕っている。
姉弟子の、真っ直ぐで、凛とした、正義らしい高潔さが大好きだった。
…姉弟子に人殺しなんてしてほしくない。

だから私は、禁足地域へ、姉弟子の先へ行かなくてはならない。
彼女が全てを知ってしまう前に。
彼女が魔王の存在を疑う前に。
彼女が真の勇者であれるように。

まずは証拠の隠滅だ。
禁足地域の国家計画資料は既に全て集めてある。
民に秘匿され、支配層の誰もが目を逸らしたい、王国きっての汚点の資料だ。紛失に気づくまでには随分時間がいるだろう。

明日、もし晴れたら。
火をつけに行こう、この資料たちに。
暗黒の歴史たちに。

そして見届けよう。禁足地域の全てのことを。
なんとしてでも勇者より先に、魔王の正体を知るために。
魔王をどうにかするために。

熱風が窓から吹き抜ける。

窓を閉め、カーテンを引く。
まとめた荷物を、ベッドの横に揃える。

明日、もし晴れたら。
そんな言葉に逃げる自分が、嫌になる。
私は弱くて、小狡くて、捻じ曲がった卑近な人間だ。
姉弟子とは違って。
だから大丈夫。

空は隅々まですっきりと晴れ渡っていた。

7/31/2024, 11:44:59 AM

湯かごを振りながら、ふらふらと歩く。
町中はいつも通り、温かい電球の明かりが窓から漏れていた。

かごの持ち手につけた根付けの鈴が、ちりん、と鳴った。
茜色の夕暮れが、空を覆って。
鳥たちの黒い影が、悠々と空を横切っていった。

喉が鳴った。
湯かごの中に買っておいたビールの瓶が、タオルに包まれて汗ばんでいた。

かごは一本のビール瓶には些か広いようで、タオルを巻いてもまだかごの内には隙間が空いていた。
ひぐらしの悲しげな声が、ポツポツと降っていた。

あの時の夏も、こんな風にひぐらしが寂しげに鳴いていた。
あなたはこちらを見て、楽しそうに笑って、ひんやりと汗ばんだビールの瓶をこちらに差し出した。

まだ未成年だった私は、首を横に振った。
それでも先輩は楽しげに笑って、中身の目減りした方のビール瓶を煽った。

「成人したらさ、…来年か。来年はさ、一緒に飲もう」
死ぬほど旨いからさ、そう言って先輩は本当に楽しげに踵を返した。

逆光で、先輩の後ろ姿は切り絵のように黒々とはっきり見えた。

夕日が真っ赤で眩しかった。

この温泉街に連れてきてくれたのは、先輩だった。
「特別に、夏にとびきり良い穴場を教えてあげるよ」
得意気にくしゃりと笑った先輩の手を、私は斜に構えた憎まれ口を叩きながら、握った。

それからというもの、毎年、私と先輩は二人でここへやってきた。
温泉に入って、冷たい飲み物で火照りを覚まして、くだらない話をしながら、夕涼む町をふらふらと歩いた。

この夏の密かな楽しみを共有する証の根付けが、手元の湯かごに揺られて、ちりちり、と鳴っていた。

ある日、先輩は消えた。
何があったのか、何が原因か、私には分からなかった。

私は先輩の数いる後輩の一人にすぎなかった。
大学の、ちょっと仲の良い、気に入られて、可愛がってもらっている後輩でしかなかった。

だから私は何も知らない。
先輩の住所も、苦悩も、過去も、交友関係も、他の趣味も。
先輩だって、私のそれらを知らなかっただろう。

でも、この夏の日の温泉街の散策だけは、私だけが知っていることだった。
ここをそぞろ歩く夕暮れは、私にとって先輩とだけの想い出だった。

だから、一人でいたい。
今日だけは、一人でいたかった。

仄かに温泉の硫黄の香りが香った。
栓抜きを取り出して、ビールを開けた。
先輩がいつもしていたように、直接口をつけた。

弾けるような麦の香りと苦い風味が、ごくり、と喉を抜けていった。

確かに、死ぬほど旨かった。

7/30/2024, 1:38:42 PM

蝉の声が聞こえる。
白杖を持つ手の内が汗ばんでいる。

アスファルトからの熱気がジリジリと肌を撫でる。
この暑さだと盲導犬や介助犬も仕事にならないだろう。
彼らは私たちよりずっと地面に近くて、ずっとアスファルトの照り返しに晒されるのだから。
うっすらと伝う汗を拭う。

点字ブロックを頼りに歩く外出にもだいぶ慣れた。
信号機の音声に耳を澄ますのも。
手探りで家のドアノブを捻るのも。

世界がぼんやりと輪郭でしか捉えられなくなって、もう三年が経とうとしている。

彼女と出会ってからはもう五年が過ぎることになる。

あの日もちょうどこんな暑い日だった。

視界に異常を感じて掛かった目医者に紹介状を書かれて訪れた大学病院。
その日がたまたま彼女の通院日だった。

白杖を構えて、私の顔を覗き込むようにいた彼女の視線は、しかし私を捉えていなかった。
だけど私は、あの子の瞳を、今でもよく覚えている。

美しく澄んだ瞳だった。
吸い込まれそうに底無しの柔らかな瞳。
今までもこれからも何も写すことはないけれども、誰よりも、私の一生の記憶の中でも、一番澄んでいた。

「綺麗な眼ですね」
思わず出てしまったその言葉は、正しいものではなかったかもしれない。
彼女は虚をつかれたような顔をして、それからふんわりと笑って
「ありがとう!眼は初めて褒められた!」
と楽しそうに話した。

「眼のことはね、誰も話さないの」
一度で終わるはずだった大学病院への通院は、長引く一方だった。
私はいつの間にか、澄んだ瞳を持つ彼女と、顔見知りの友人になっていた。
通院がもはや日常と化した、肌寒い風が吹き付ける日に、彼女は言った。
「みんな腫れ物みたいに扱うの。…でも私にとっては生まれた時からの普通だから」
「…だから、眼を褒められた時、嬉しかったの」

私と彼女は、待合室でいろんな話をした。
色の話、匂いの話、空気の話、季節の話。
点字の話、本の話、イヤホンの話、音楽の話。

私の視界はぼやける一方で、彼女が病院にいることも増える一方だった。
気を晴らすように、私たちはいろんな話をした。
浮き上がる不安を押し込めるように。
何気ないこと。趣味のこと。海の音。眼のこと。

楽しかった。
すごく楽しい日々だった。

誰がなんと言おうと、私たちは幸せだった。

「手術を、勧められたんだ」
彼女が言った。
凍える風が吹き付ける日だった。
「…ドナーが、見つかったんだって。……もしかしたら見えるようになるかもしれないんだって」

その頃には私の視界は、もう霧が立ち込めていた。

私は…。
私は弱い人間だった。
私は彼女を憐んでいた、勝手に同じ悲劇仲間として見ていたのかもしれないと、その時になって初めて気づいた。
その言葉に初めて返答に詰まって。
彼女を素直に祝福できないと気づいて。

彼女の澄んだ瞳は、何かを写すのだろうか。
何かを写せるように、なるのだろうか。
彼女は、やっぱり見えるようになりたいのだろうか。

一つ確実なのは、その日から、私は視覚障害者として白杖と盲導犬に頼ることを決め、それを理由に彼女を避け始めたということだ。

蝉の鳴き声が左に偏ってきた。
病院が近い。

今日の音声メモは、彼女が手術後初めて眼を開くことを告げていた。

だから私は家を出た。
私の眼として共に歩いてくれるあの子に留守番させて、白杖だけを持って。

彼女に会いに。

蝉の声が降り注ぐ。
病院周りの街路樹の蝉たちだ。
風に微かに清潔の香りが混じる。
病院の入り口はもうすぐそこだ。

手に下げたお見舞いにそっと触れる。
彼女が大好きな桃と、スケッチブック。それからカメラ。
桃の、ひんやりと柔らかな産毛が指先を撫でる。

私はゆっくりと一歩を踏み締めた。

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