湯かごを振りながら、ふらふらと歩く。
町中はいつも通り、温かい電球の明かりが窓から漏れていた。
かごの持ち手につけた根付けの鈴が、ちりん、と鳴った。
茜色の夕暮れが、空を覆って。
鳥たちの黒い影が、悠々と空を横切っていった。
喉が鳴った。
湯かごの中に買っておいたビールの瓶が、タオルに包まれて汗ばんでいた。
かごは一本のビール瓶には些か広いようで、タオルを巻いてもまだかごの内には隙間が空いていた。
ひぐらしの悲しげな声が、ポツポツと降っていた。
あの時の夏も、こんな風にひぐらしが寂しげに鳴いていた。
あなたはこちらを見て、楽しそうに笑って、ひんやりと汗ばんだビールの瓶をこちらに差し出した。
まだ未成年だった私は、首を横に振った。
それでも先輩は楽しげに笑って、中身の目減りした方のビール瓶を煽った。
「成人したらさ、…来年か。来年はさ、一緒に飲もう」
死ぬほど旨いからさ、そう言って先輩は本当に楽しげに踵を返した。
逆光で、先輩の後ろ姿は切り絵のように黒々とはっきり見えた。
夕日が真っ赤で眩しかった。
この温泉街に連れてきてくれたのは、先輩だった。
「特別に、夏にとびきり良い穴場を教えてあげるよ」
得意気にくしゃりと笑った先輩の手を、私は斜に構えた憎まれ口を叩きながら、握った。
それからというもの、毎年、私と先輩は二人でここへやってきた。
温泉に入って、冷たい飲み物で火照りを覚まして、くだらない話をしながら、夕涼む町をふらふらと歩いた。
この夏の密かな楽しみを共有する証の根付けが、手元の湯かごに揺られて、ちりちり、と鳴っていた。
ある日、先輩は消えた。
何があったのか、何が原因か、私には分からなかった。
私は先輩の数いる後輩の一人にすぎなかった。
大学の、ちょっと仲の良い、気に入られて、可愛がってもらっている後輩でしかなかった。
だから私は何も知らない。
先輩の住所も、苦悩も、過去も、交友関係も、他の趣味も。
先輩だって、私のそれらを知らなかっただろう。
でも、この夏の日の温泉街の散策だけは、私だけが知っていることだった。
ここをそぞろ歩く夕暮れは、私にとって先輩とだけの想い出だった。
だから、一人でいたい。
今日だけは、一人でいたかった。
仄かに温泉の硫黄の香りが香った。
栓抜きを取り出して、ビールを開けた。
先輩がいつもしていたように、直接口をつけた。
弾けるような麦の香りと苦い風味が、ごくり、と喉を抜けていった。
確かに、死ぬほど旨かった。
7/31/2024, 11:44:59 AM