377号室の患者さんは、厄介な患者さんだった。
壊死で入院された方だった。
あの日、ドクターヘリで担ぎ込まれた何人かのうちの一人で、その中でも特に損傷の重かった彼は、緊急で手術室を割り当てられた?
雪山で同行者に裏切られたのだ、と口癖のように言っていた。
起きた彼は何も信じなかった。
リハビリも点滴も何もかも、とりあえず拒否して、体をこわばらせていた。
彼だけが個室の病室に入れられたのも、彼が安心できるよう、担当の看護師が一人専属で割り当てられたのも、そのせいだった。
私は彼を世話するように頼まれた。
彼が信頼できる人間となって、彼の治療を円滑に行うこと。それが私に課された使命だった。
彼は厄介な人だった。
病室なんかは、一度懐疑的に見れば、なんでも怪しく見える。
彼を宥めるのは大変だった。
日の浅いうちは、暴言を吐かれたり、物を投げられたりすることもあった。
痣が絶えなかった。
彼は臆病だったのだ。
病室の端にうずくまり、怯えと警戒の色をした瞳だけをぎょろぎょろと光らせ、精一杯体を引いて必死にこちらを拒む様子は、まるで虐待された愛玩動物か、弱った野生動物のようだった。
私は、そういう瞳が、強張った顔が、好きだった。
それはただの個人的な趣味で私的なこと。
それを仕事の質と権限に影響させるつもりは全然なかった。
彼は徐々に心を開いた。
人間不信もトラウマも改善の兆しを見せた。
瞳の中の怯えと警戒は、ゆっくりと薄れていった。
代わりに、彼の瞳の中に灯る信頼と安堵とが、私の瞳にありありと映るようになった。
彼が眠るまで、病室にいたことがあった。
彼が落ち着くまで、背中をさすったこともあった。
彼が泣くのを、じっと聞いていたこともあった。
仕事のために。使命のために。彼を救うために。
退院のその時、主治医に頭を下げて顔を上げた彼は、私を見上げていた。
怯えと不安の混じった瞳で。
微かに震えた声で、これからどうすればいいんだ、と聞こえた。
退院は喜ばしいことだ。
病室が空くことは、死であれ退院であれ、患者さんが自分の足で次の一歩を踏み出した、進む兆しだ。
でも、彼の場合は、本当に前に進めたのだろうか。
前に進めなかったごく一部の患者さんは、何度も入退院を繰り返すことがある。
ミュンヒハウゼン症候群。
外科の私たちには専門外の、私たちには救えない患者さんたち。
それでも、患者さんが怪我をしたら、私たちは少なくともその怪我が治るまでは、入院してもらわなくてはならない。
それが彼らを足踏みさせているのだと知っていても。
彼はいずれまた戻ってくるだろう。
私は最後まで彼を救えなかった。
病室の掃除は、今も私が担当している。
377号室は、まだ空いている。
377号室の患者さんは、厄介な患者さんだ。
8/2/2024, 12:25:05 PM