オーロラが波打っている。
Wi-Fiが繋がらない。
スマホもパソコンも、深い眠りについている。
鳩が空を入り乱れている。
雨は一滴も落ちてこない。
でも今は嵐の最中だった。
太陽の黒点が急激に増え、宇宙嵐が巻き起こってから、数日。
人工衛星が次々に墜落し、電磁波異常でテクノロジーはことごとく劣化し、辺りには錆びついた機械の骸が横たわっている。
『嵐が来ようとも、負けない文明を!』
Society5.0という新たな社会の形態が打ち立てられた時の売り文句は、だいたいこういう文句だった。
ドローンや無人自動車が物流を担うようになり、工業ロボットが危険な現場仕事を代替し始め、一人一台、AIが配備され、脳にインターネットが接続され…
今や人類は、物理的な災害があっても、携帯に頼らず生きていけるようになっていた
はずだった。
宇宙嵐。
太陽の黒点の変化によって引き起こされるプラズマの嵐は、空をオーロラ色に染め上げ、全ての電子機器を叩き落とした。
インターネットに接続し、電子化した脳は、嵐に溶けた。
災害支援をしてくれるはずの工業ロボットは、ただの金属片になった。
AIの気は狂ってしまった。
今や生き残っているのは、脳をインターネットに接続できなかった且つ、AIと電子機器によって作り出された恵みを受け取れなかった、盗みとゴミ漁りと狩りによって、野良犬のように生き抜いて来た人間だけになった。
私たちのような。
埃と灯油に塗れた顔を拭う。
ゴキブリが足元を駆け抜けて行く。
見渡す限りの廃墟の上に、七色に色を変える、鮮やかな空が広がっている。
貴族もブルジョワも、私たちを汚い目で見ていた人も、みんな居なくなった。
ここは私たちの天下だ。
嵐が来ようとも、私たちは生き抜いた。貧民の私たちと、害獣として虐げられて来たネズミやゴキブリたちが。
ひんやりとした風が肌を撫でる。
萎びた人参の尻尾が、止まりっぱなしの無人自動車のドアの隙間から覗いている。
嵐が来ようとも。
こういう嵐が来たからこそ、私たちは生き抜いた。
電化製品からは火花だけが散っている。
錆の匂いが漂っている。
足元を駆け抜ける不潔は、生命感に満ちていた。
空は美しく波打っていた。
囃子と太鼓の音が響く。
人混みのざわめきが、遠くに聞こえる。
提灯の暖かい灯りがずうっと続いている。
屋台が遠い。
随分、高いところまで来てしまったようだ。
手首に引っ掛けたヨーヨーが垂れている。
どこまで行くのだろう。
先を歩く、お面をつけた甚平の背中に追いすがりながら、そう考えた。
どこまで登って行くのだろう。
囃子と太鼓の音が響く。
向かっているのはお社の方だ。
お祭り。
年に一度の夏祭り。
古くからこの地域に伝わる、お盆と、神様への感謝のお祭りを合わせた、この神社のお祭り。
午前はお神輿と出し物で、神様への感謝を伝え、讃える。
午後は出店とお囃子と花火とで、ご先祖の霊に感謝し、お盆に帰ってくる霊たちを楽しく迎え入れる。
お祭りは毎年、一定以上の賑わいを見せており、今年は_特に午後の部は_大層繁盛していた。
今年のお祭りは、私も出し物に参加していた。
神様に御供物として、太刀と槍、太鼓と笛を使って、踊劇をやったのだ。
本来ならこの出し物の演者は、十八を過ぎた女性に限られていた。
しかし、二週間前に演者の一人が怪我をして、やむなく十八になっていない女子の中で一番背の高かった、十六の私が出し物に参加することになった。
この二週間は結構大変だった。
怪我をした演者がまあまあ重要な役回りだったため、代役の私がこなさなくてはならないことが、たくさんあったのだ。
出し物の劇を叩き込むために、毎日公民館に通い、毎日練習を重ねた。
台詞を覚え、祝詞を暗記し、振り付けを体に刻み込んだ。
だからこそ、今日、出し物が無事に終わった時は、達成感でいっぱいだった。
念入りに化粧をされて、衣装に着せ替えてもらって、鏡越しにまるで大人のように見違えた自分を見た時は、目が眩むほど緊張したけど。
出し物の後は、たくさんの大人にも褒められて、親からも少し多めにお小遣いを貰えて、一緒に頑張った演者たちで午後の部に遊ぶ約束をして…
午後の部を楽しむつもりで、私は浴衣を着込んで家を出た。
…待ち合わせ場所に着いた時、居たのはお面を被り、甚平を着込み、雪駄を履いた男の子だった。
待ち合わせの時間になって、誰も来なくて。
…そのまま十分が経った後、彼が_目の前の男の子が私の袖を引いた。
確か演者に選ばれたお姉さん方の中に、これくらいの弟がいると言っていた人がいた。
もしかしたら、この子が弟さんかも。
そう思った私は、引かれるままについて行き、鳥居の奥の石段に足をかけた。
それから私と男の子は、お社をめがけてぐんぐん登って来たのだった。
それにしても登りすぎな気がする。
どこまで行くのだろう。
午後の部のお祭りの時は、確かお社には入ってはいけない決まりのはずなのに。
みんなはどこまで行ったのだろう。
そう考えて、ふと顔を上げると、先を登っていた男の子が振り返り、こちらを見下ろしていた。
何故だか、お面の向こうで、彼が笑ったような気がした。
提灯が赤々と、心細げに、幻想的に灯っていた。
辺りはしいん…として、囃子と太鼓の音が寂しげに響いていた。
私と彼を、深い闇が包んでいた。
人の声はもう聞こえなかった。
生ぬるい地面に滑って、体を打ちつける。
地面はすっかり、生ぬるく柔らかいものに覆われている。
顔を拭い、体を起こす。
目の前の惨状は相変わらずだ。
これを地獄と呼ばないなら、何を地獄と呼ぶのだろう。
足元の肉塊がくちゃり、と粘性の籠った悲鳴をあげた。
本当の絶望に対面すると、泣くこともできないものらしい。
袖で顔を拭う。
列車の窓は内側から赤く曇っていた。
唐突に、頭上に光が差した。
列車の照明は切れてしまっている筈なのに。
その光の中から、何かが降りてきた。
後光を背負い、清潔で、高貴で、神秘的で、美しく。
この環境にそぐわない何かが…
これが噂に聞く神様だろうか?
神様と思しき神秘的な存在を見ても、私の脳は恐怖さえ感じなかった。
感激も、感動も、恐怖も、痛みや辛さもない。
あるのは絶望と呆れだけ。
連れや仲間を探す気も起きなかった。
ただ、私はぼんやりとそれを見つめて考えていた。
痛覚を排除するインプラントなんて発明したバカは、一体誰だったのだろう、と。
疲労、苦痛、不快、恐怖。
これらの感情を可能な限り避けようとするのは、命と感情を持つ生き物にとって当たり前のこと。
だから、ヒトがそれらを人類から根絶しようと考えたのは当たり前のことだったのかもしれない。
私たち人類は、ずっと“天敵”に脅かされてきた。
奴らは奴らの豊かな生活のため、私たちを侵略してきていた。
もちろん、私たちも豊かな生活のため、奴らを侵略していた…らしい。
そんな人類の明確な“天敵”に勝利を収めるため、私たちの文明は生物学と道徳そっちのけで、実益最重視でつき進んだ。
天敵をより殺すため。天敵の影響を受けないより良い環境を手に入れるため。
どの国のどんな人間も、他国や天敵との戦いのため、最低限の戦闘能力を手に入れた。
こうして、人類の戦争の歴史は激化した。
他国と利権を争って戦い、天敵と戦い…
あちらこちらで悲劇が生まれた。
…そしてこれも、この世界にありふれた悲劇の一つに過ぎなかった。
人と人との戦争に巻き込まれたこの列車は、気づいたら痛みを感じない人たちが、敵味方乱れて殺し合う、戦場となっていた。
……そして私は今、戦場の終幕に1人残された。
…ところに、神秘的な何かが降りてきた。
おそらく、神様とやらが。
この車両に、この血みどろの世界に、あまりにも不相応で格式高く、清潔すぎて、思わず怒りを覚えてしまうような、絶対的で完璧な神様とやらが。
神様が。
神様が舞い降りてきて、こう言った。
「 」
なんと言ったのか、私の脳は理解を拒んだ。
瞼が重くなり、目を瞑った。
意識が赤く霞んだ。
瞼の裏に、清潔な神様の後光が焼き付いている。
煙草に火をつける。
赤い火口から細い煙が上がる。
誰かのためになるならば。
誰かのためになるならば、不道徳な行動はどこまで許されるのだろうか。
薄汚れた白衣を羽織り直す。
診察台の上に置いた針と鉗子が、照明に照らされて怪しく光っている。
人の気配はしない。
無理もない。
僕が今やっている研究について来てくれる人間など、そうそういないだろう。
俺の専門は精神科、生命倫理の畑の人間だ。
精神に問題を抱える患者を治療したり、終末医療を受ける患者の相談を受けたり…普段はそんなことを仕事にしている。
まあ、難しい仕事だ。正解がないのが特にキツい。
抱えるものが大きすぎて、医者の不摂生を体現するように精神を病んで、患者側として職場に通うことになる同僚や部下も少なくない。
煙を燻らす。
細い煙が、揺らめきながら天井へ登っていく。
倫理や正義については何度も論じてきた。
生命とは何か、道徳とは何か。
それは、大学時代から何度も問うてきたお馴染みの自己問答だ。
そういう人間だから、容易く一線を越えられたのだろう。
もしくは、マトモに見えた俺も、既に狂ってしまっていたということか。
目がシパシパと乾く。
近頃、睡眠時間が取れていない。
潰れて辞めていった医者たちの埋め合わせと、件の研究に追われて、しばらく仮眠すら取っていない気がする。
そういや、昨日鏡で見た自分の顔は、随分とクマが酷かった。
戦場や無法地帯に_それこそ誰かのためとはいえ_生きた人間を送り込むことは、倫理的にずっと問題に問われていた。
人間に暴力という選択肢が残されている限り、誰かが手を汚し、秩序を守らなくてはいけない。
だが、それには心身共に莫大な危険と負荷がかかる。
無事に帰ってきたとて、精神を病んで、平和を享受出来なくなる人間もたくさん出る。
それは、先進国の少子化が深刻化し、精神病の患者が急増した現代で、一躍、人類達の頭を悩ます筆頭問題となった。
そこで、極秘の計画が持ち上がったのだ。
内容は簡単。人に変わる兵士を作り出す計画だ。
だが、機械やAIではダメだ。
奴らにはコストが掛かるから。
人間が昔から今までも、これからも、人間が兵士として使われてきた所以の一つに、コストが少なくて済む、ということがあるのだ。
人間は、勝手に生殖で増え、自然と意思疎通できるようになる。
プログラムを組み、金属を加工し、体を組んで膨大な時間をかけて出来上がる機械よりもよっぽど手軽で、即戦力になる。
たとえ生命が複製できないただ唯一の存在だとしても。
機械を量産するより、ずっと効率的なことには変わりない。
機械を発明したとして、それは人間の兵を無くすことには繋がらない。
…だから、僕たちが目をつけたのは死体だった。
生きている人間の次に、自然発生する人体だ。
死体を従順な何かとし、戦場やトラウマになるような場所に送り込まれる人間を根絶する。
これが我々の…僕たちの研究だ。
簡単ではない。現に長い月日が経ち、チーム最年少だった俺が最年長となっても、まだゴールは見えて来ない。
…そんな中、何千人の人間が戦場に送り込まれたことだろう。
溜息をつく。
青灰色の煙が、溜息に色をつける。
縫い目が露わな死体は、目を開きそうにない。
誰かのためになるならば。
生きる人たちのためになるならば、こんな死への冒涜も許されるのだろうか。
分からない。
煙草が短くなってきた。
灰が足元に散る。それを踏み躙る。
青白い蛍光灯が、仄暗い冷めた目で、こちらを見下していた。
西の空が赤く染まる。
今日も無事に村まで帰って来れた。
仕事仲間のシェパードが、豊かな長毛を靡かせて、こちらを見つめている。
今日の仕事は終わりだ。
今日も1匹の遜色もなく、羊たちを送り届けた。
雇い主に羊の群れを渡し、報酬を貰い、仕事仲間の頭を一撫して別れを告げる。
杖を持ち直し、帰路に着く。
雇い主がこちらに向かって唾を吐き、扉の奥に消えていくのを目の端で捉えながら、僕はまっすぐ歩き続ける。
杖の、緩やかにカーブした持ち手に下げた鳥かごが、ゆらりと揺れる。
正確には、鳥かごの中の鳥かごの中の鳥かごの中の鳥かごの中で狭苦しそうにもがく、漆黒の渦巻きが、揺れる。
厳重に鳥かごの中に押し込められた、この小さな漆黒の闇渦巻きは、狭い狭い鳥かごの中、二対の黒い羽根を交互に羽ばたきながら、ぐるぐるとこの世の負のエネルギーを蓄えている。
これは厄災だ。
かつては僕たち人間を脅かした、“魔王”と呼ばれていた者の、悪意と魔力と力の核。
つまり、人間社会にとっての厄災。
魔王は二年前、勇者によって倒され、肉体を失った。
だが、魔王と勇者の決戦の決着によって表面化した、魔王の無念、勇者とその仲間たちの無念と奪われた平和な生活に対する負の感情を吸った魔王の核は、佇み続けた。
一応、勇者の仲間の聖職者が、最期の力で、厄災の核を抑え込んだらしい。だから、厄災の核はこれほどまでに小さいのだ。
仲間を失い、幸福という犠牲を払って帰還を遂げた勇者は、一年前に国王に疎まれ、他国の人々からは危険視され、無念の死を遂げた。
英雄とはそういうものなのだ、と、僕たちは思った。
…参政権を持つ民には、為政者に納得できるカバーストーリーが流布されていそうだが。
ともかく、そんなこんなで放置された厄災の核。
これを僕が見つけたのは、仕事の最中のことだった。
いつものように、村民や雇い主に半ば追い出されるような形で羊の群れを受け渡され、高原へ向かったいつもの朝。
僕は、二対の羽根で悠々と飛ぶ、この核を見つけたのだ。
僕にとって…周りから畏怖と軽蔑の目で見られ、聖職者からは敵視される僕たち羊飼いにとって、これほど魅力的な拾い物はなかった。
この僕たちにとって厳しい、酷い社会を破壊できる兵器を手に入れたも同然だ。
だから僕は、それを鳥かごの中に拾い上げた。
消滅させなかったことを恩に着せ、しばらく鳥かごの中で飼い殺しにすることにした。
コイツのおかげで、僕の精神はすっかり安定した。
いざとなれば手がある。
それに、コイツのおかげで魔物も肉食獣も寄って来ない。
仕事がだいぶ快適になった。
鳥かごは僕に自由と余裕をもたらしてくれた。
鳥かごの中で、闇渦巻きは、もがいている。
ヤツは逃げたいらしい。逃すものか。
この鳥かごの中にいるコイツは、僕の幸せの青い鳥なんだから。
ヤツの気を削ぐため、鳥かごを揺すりながら帰路に着く。
聖歌なんかも口ずさんでやる。
黒い二対の羽根の動きが鈍る。それでいいんだ。
空が赤く染まっている。
今日もぐっすり眠れそうだ。