薄墨

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煙草に火をつける。
赤い火口から細い煙が上がる。

誰かのためになるならば。
誰かのためになるならば、不道徳な行動はどこまで許されるのだろうか。

薄汚れた白衣を羽織り直す。
診察台の上に置いた針と鉗子が、照明に照らされて怪しく光っている。

人の気配はしない。
無理もない。
僕が今やっている研究について来てくれる人間など、そうそういないだろう。

俺の専門は精神科、生命倫理の畑の人間だ。
精神に問題を抱える患者を治療したり、終末医療を受ける患者の相談を受けたり…普段はそんなことを仕事にしている。
まあ、難しい仕事だ。正解がないのが特にキツい。
抱えるものが大きすぎて、医者の不摂生を体現するように精神を病んで、患者側として職場に通うことになる同僚や部下も少なくない。

煙を燻らす。
細い煙が、揺らめきながら天井へ登っていく。

倫理や正義については何度も論じてきた。
生命とは何か、道徳とは何か。
それは、大学時代から何度も問うてきたお馴染みの自己問答だ。

そういう人間だから、容易く一線を越えられたのだろう。
もしくは、マトモに見えた俺も、既に狂ってしまっていたということか。

目がシパシパと乾く。
近頃、睡眠時間が取れていない。
潰れて辞めていった医者たちの埋め合わせと、件の研究に追われて、しばらく仮眠すら取っていない気がする。
そういや、昨日鏡で見た自分の顔は、随分とクマが酷かった。

戦場や無法地帯に_それこそ誰かのためとはいえ_生きた人間を送り込むことは、倫理的にずっと問題に問われていた。

人間に暴力という選択肢が残されている限り、誰かが手を汚し、秩序を守らなくてはいけない。
だが、それには心身共に莫大な危険と負荷がかかる。
無事に帰ってきたとて、精神を病んで、平和を享受出来なくなる人間もたくさん出る。

それは、先進国の少子化が深刻化し、精神病の患者が急増した現代で、一躍、人類達の頭を悩ます筆頭問題となった。

そこで、極秘の計画が持ち上がったのだ。
内容は簡単。人に変わる兵士を作り出す計画だ。

だが、機械やAIではダメだ。
奴らにはコストが掛かるから。

人間が昔から今までも、これからも、人間が兵士として使われてきた所以の一つに、コストが少なくて済む、ということがあるのだ。
人間は、勝手に生殖で増え、自然と意思疎通できるようになる。

プログラムを組み、金属を加工し、体を組んで膨大な時間をかけて出来上がる機械よりもよっぽど手軽で、即戦力になる。
たとえ生命が複製できないただ唯一の存在だとしても。
機械を量産するより、ずっと効率的なことには変わりない。

機械を発明したとして、それは人間の兵を無くすことには繋がらない。

…だから、僕たちが目をつけたのは死体だった。
生きている人間の次に、自然発生する人体だ。

死体を従順な何かとし、戦場やトラウマになるような場所に送り込まれる人間を根絶する。
これが我々の…僕たちの研究だ。

簡単ではない。現に長い月日が経ち、チーム最年少だった俺が最年長となっても、まだゴールは見えて来ない。
…そんな中、何千人の人間が戦場に送り込まれたことだろう。

溜息をつく。
青灰色の煙が、溜息に色をつける。
縫い目が露わな死体は、目を開きそうにない。

誰かのためになるならば。
生きる人たちのためになるならば、こんな死への冒涜も許されるのだろうか。

分からない。

煙草が短くなってきた。
灰が足元に散る。それを踏み躙る。
青白い蛍光灯が、仄暗い冷めた目で、こちらを見下していた。

7/26/2024, 1:09:58 PM