蝉の声が聞こえる。
白杖を持つ手の内が汗ばんでいる。
アスファルトからの熱気がジリジリと肌を撫でる。
この暑さだと盲導犬や介助犬も仕事にならないだろう。
彼らは私たちよりずっと地面に近くて、ずっとアスファルトの照り返しに晒されるのだから。
うっすらと伝う汗を拭う。
点字ブロックを頼りに歩く外出にもだいぶ慣れた。
信号機の音声に耳を澄ますのも。
手探りで家のドアノブを捻るのも。
世界がぼんやりと輪郭でしか捉えられなくなって、もう三年が経とうとしている。
彼女と出会ってからはもう五年が過ぎることになる。
あの日もちょうどこんな暑い日だった。
視界に異常を感じて掛かった目医者に紹介状を書かれて訪れた大学病院。
その日がたまたま彼女の通院日だった。
白杖を構えて、私の顔を覗き込むようにいた彼女の視線は、しかし私を捉えていなかった。
だけど私は、あの子の瞳を、今でもよく覚えている。
美しく澄んだ瞳だった。
吸い込まれそうに底無しの柔らかな瞳。
今までもこれからも何も写すことはないけれども、誰よりも、私の一生の記憶の中でも、一番澄んでいた。
「綺麗な眼ですね」
思わず出てしまったその言葉は、正しいものではなかったかもしれない。
彼女は虚をつかれたような顔をして、それからふんわりと笑って
「ありがとう!眼は初めて褒められた!」
と楽しそうに話した。
「眼のことはね、誰も話さないの」
一度で終わるはずだった大学病院への通院は、長引く一方だった。
私はいつの間にか、澄んだ瞳を持つ彼女と、顔見知りの友人になっていた。
通院がもはや日常と化した、肌寒い風が吹き付ける日に、彼女は言った。
「みんな腫れ物みたいに扱うの。…でも私にとっては生まれた時からの普通だから」
「…だから、眼を褒められた時、嬉しかったの」
私と彼女は、待合室でいろんな話をした。
色の話、匂いの話、空気の話、季節の話。
点字の話、本の話、イヤホンの話、音楽の話。
私の視界はぼやける一方で、彼女が病院にいることも増える一方だった。
気を晴らすように、私たちはいろんな話をした。
浮き上がる不安を押し込めるように。
何気ないこと。趣味のこと。海の音。眼のこと。
楽しかった。
すごく楽しい日々だった。
誰がなんと言おうと、私たちは幸せだった。
「手術を、勧められたんだ」
彼女が言った。
凍える風が吹き付ける日だった。
「…ドナーが、見つかったんだって。……もしかしたら見えるようになるかもしれないんだって」
その頃には私の視界は、もう霧が立ち込めていた。
私は…。
私は弱い人間だった。
私は彼女を憐んでいた、勝手に同じ悲劇仲間として見ていたのかもしれないと、その時になって初めて気づいた。
その言葉に初めて返答に詰まって。
彼女を素直に祝福できないと気づいて。
彼女の澄んだ瞳は、何かを写すのだろうか。
何かを写せるように、なるのだろうか。
彼女は、やっぱり見えるようになりたいのだろうか。
一つ確実なのは、その日から、私は視覚障害者として白杖と盲導犬に頼ることを決め、それを理由に彼女を避け始めたということだ。
蝉の鳴き声が左に偏ってきた。
病院が近い。
今日の音声メモは、彼女が手術後初めて眼を開くことを告げていた。
だから私は家を出た。
私の眼として共に歩いてくれるあの子に留守番させて、白杖だけを持って。
彼女に会いに。
蝉の声が降り注ぐ。
病院周りの街路樹の蝉たちだ。
風に微かに清潔の香りが混じる。
病院の入り口はもうすぐそこだ。
手に下げたお見舞いにそっと触れる。
彼女が大好きな桃と、スケッチブック。それからカメラ。
桃の、ひんやりと柔らかな産毛が指先を撫でる。
私はゆっくりと一歩を踏み締めた。
7/30/2024, 1:38:42 PM