300字小説
とある春の日
朝の空の下、淡いピンクの吹き溜まりがところどころに出来た道を歩き出す。全く知らない街。ホテルで何度も確認した地図を見ながら地下鉄に乗る。一つ二つ、駅を通過する度に降りる人で空いてきた車内に似たようなキャリーケースを持った人が現れる。SNSのTLにも会場に向かう呟きが増えてくる。
最寄りの駅で降りる。可愛らしい女性が同じ方向に歩いていく。あの人がフォロワーのナオさんだろうか。あっちの男の人はトオルさんかもしれない。
会場の建物が見えてくる。このキャリーの重みが帰りにはどれだけ軽くなってくれるのかは解らないが、宣伝の呟きについた『いいね』を半分くらいは信じて。
胸を高鳴らせながら私は入場受付に向かった。
お題「胸が高鳴る」
300字小説
流浪の王
その王は今の世では『流浪王』と呼ばれている。王家の第八王子として産まれ、傍流の公爵家の嫡男として養育されていたが、貴族同士の権力争いのなか、上の兄達が次々と失脚し、とある有力者に担ぎ上げられ、王となった。
しかし、数年で退位させられ、その後は親戚筋を転々としたという。そんな彼の不条理な人生を『流されるだけの人生を送った』と下げずむ歴史家も多い。
「私はそうは思わないんですけどね」
『流浪王』の詩集を手に歴史家の彼と王が滞在した村を見下ろす。
春霞に煙る青い山々。白い花を零れんばかりにつけた果樹の園。詩集に書かれた美しい光景が広がっている。
「本当に」
愛らしい鳴き声をあげて小鳥が空を駆け上がっていった。
お題「不条理」
300字小説
不可抗力の涙
『俺は泣かないよ』
娘の卒園式。一緒に出席すると決めたときから、夫は言っていた。
『幼稚園の先生はあの手この手で泣かせてくるかもしれないけど、俺は絶対に泣かない』
でも実際に卒園式が始まると、保護者席のあちらこちらから鼻を啜る音が聞こえてくる。
特に園が特別な演出をしているわけではないけれど、名前を呼ばれて立つ背中に、卒業証書を受け取る手に、生まれたばかりの頃の小さな身体や手が重なって、つい涙が出てしまう。私の小学生の卒業式のとき、厳格な父が目をうるませていて、びっくりしたことがあるけど、そうか父もあのとき、こうして思い出を重ねて泣いていたのか……。
「……ところで、お父さんハンカチいる?」
「……ああ」
お題「泣かないよ」
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その男怖がりゆえ
あるところに一人の怖がりの男がいたという。男は怖がりゆえに何かあったときに立ち向かえるよう、身体を鍛え、剣術を磨き、怖がりゆえに魔王がいる世界では安心出来ないと、勇者になって魔王を倒し、怖がりゆえに後々、嫉妬と羨望から身を滅ぼすのではないかと、国王が勧める姫との結婚を断り、姿をくらました。
「……で、その男はどうなったの?」
「どうなったんでしょうねぇ」
僕の問いに母さんが可笑しそうに笑う。
「母さん、森で魔狼の群れの足跡を見つけた。冬に餌が無くなって襲ってくると怖いから、ちょっと狩ってくる」
父さんがそう言って、棚から剣を下ろし、出かけていく。
「うちの父さんは怖がりさんだからこそ、頼りになるのよねぇ」
お題「怖がり」
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破顔一笑
一度だけ星が溢れる空を見たことがある。
仕事も家庭も何か嫌になって半分自暴自棄で山に登った夜。木の上から声を掛けられた。
『溢れる星の数ほど苦悩はある。だから我慢せいとは言わん。ただ、夜風に乗るほど呼ぶ声が聞こえるうちは、己を大切にしてやれ』
そうしみじみと言われ、太い腕に抱えられて飛んだ夜空。零れんばかりの星を見た後、気が付くと私は妻の腕に抱かれ、息子と娘に泣きながらしがみつかれていた。その後、転職し、そして今、孫を膝にのんびりと春の日差しの当たる縁側に座っている。
「あのとき救ってくれてありがとう」
春風に礼を乗せる。バサリ。何処からか大きな鳥の羽ばたきが聞こえた後、嬉しげな笑い声が淡い空に響いた。
お題「星が溢れる」