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9/2/2024, 9:12:45 AM

「開けないLINE」

何がどうなって、こうなったのか、まだ混乱している。憧れて、ただ見つめるだけだったのに、今このスマホに、あの人のIDが入った。「また」と手を振って去って行く後ろ姿を見えなくなるまで見送った。

出展している見本市会場で、たまたま高校の先輩に会った。名刺交換をして「よかったら今度食事でも」と言われ、どうせ社交辞令だろうと思っていたら…

「いつにする?」
と言いながらLINEのQRコードを表示させている。
「ほら早く。仕事中でしょ」
急いで読み取り友だち追加する。
「それじゃあ、また」

また?私たちに「また」があるの?

何も告げることなく終わった初恋。だって、先輩の隣にはいつもあの人がいたから。あの人とはどうなったの?まだ付き合ってる?もう結婚した?なぜ私を覚えてた?

聞きたいことがたくさん浮かんでくる。ブブッとスマホが震えたけど接客中で開けない。ポケットに入れておいたら集中できないからバッグにしまった。

「お疲れさまでした」
今日の業務が全て終わった。会社で新たに展開する商品の評判は上々で、今日の手応えなら明日はもっと反響があるのではとないかと期待も高まる。

「莉央」
さっきまで一緒にブースにいた一つ上の先輩に呼び止められた。

「さっきのイケメン、誰?」
「高校の先輩です」
「元彼とか?」
「違いますよ!」
「そんなに必死に否定しなくても。さては片思い?」
「教えません!」
「莉央は本当にわかりやすい。ま、頑張って!」

頑張るって何を?
バッグからスマホを取り出すと2件の通知。どっちも先輩からだ。

そういえば、私は先輩のどんなところを好きになったのだろう。かっこいいから?それは否定しない。

入学して間もない頃、自販機で飲み物を買おうとして百円玉を落としてしまった私。ころころ転がって側溝の蓋の隙間から中に落ちて行った。それを見ていた先輩が百円くれた。ただそれだけ。返しますと言ったのに、俺のおごりだからと、クラスも名前も告げずに行ってしまった。

でも、すぐにわかった。生徒会長だったから。それに副会長の女の子といつも一緒でとてもお似合いだった。

先輩は手の届かない人。だからずっと平気でいられたのに、スマホには先輩からのLINE。開けたらどうなるの?ずっと蓋をした想いがどうなるのか怖くて開けられない。

9/1/2024, 7:58:36 AM

「不完全な僕」

のろのろと自転車を押す。自転車なのに歩いている人に追い越される。もうこのまま帰りたい。

初めて自分の気持ちを自覚した日から僕はおかしくなった。体育の授業に向かっていた。運動は苦手だ。ぐずぐずとジャージに着替えお腹痛くならないか、頭痛くならないかなどと考えながら、お腹も頭も何ともなくて途方に暮れる。

前を歩く貴司の背中を見ていた。周りの連中と話しながら、時折横顔を見せる。クラスの中でいじめられないのは貴司のおかげだ。暗くてとろい僕は明らかにクラスになじんでいない。

貴司とは物心ついた時にはすでに仲良しだった。同じ病院で生まれ誕生日も同じ。母親同士が仲良くなり、気がつくといつも一緒にいた。この高校に受かったのだって、貴司が勉強を教えてくれたからだ。勉強もスポーツもでき、人柄もいい。貴司の周りにはいつも人が集まってくる。

授業の始まりを知らせる鐘が鳴る。前を歩いていた連中が一斉に走り出す。が、一人だけ戻って来る。貴司だ。

「櫂、遅れるよ」

戻ってきて僕の手を取って一緒に走り出す。2列に整列した後ろの端に滑り込んだ。

「間に合った」

貴司が眩しい笑顔を向けてくる。思わず手を離して顔をそらした。やばいやばい、この顔を見られるわけにはいかない。きっと赤い。

貴司に感じる感情に名前をつけたくなかった。今まで通りがいい。そう思えば思うほど、どう振る舞えばいいのかわからなくなる。

「櫂、一緒に帰ろう」

「ごめん、用事ある」

用事なんてない。一緒にいるのがつらいだけ。図書室に行って時間をつぶす。ちょうどいい。物理のレポートを仕上げてしまおう。夢中になっているうちに下校時間になった。

暗くてとろい不完全な僕だけど、神さまは慈悲深い。物理を僕に与えてくださった。貴司への想いを全部ぶつければ、貴司を忘れられるだろうか。貴司のいないところで何者かになれるだろうか。

8/31/2024, 9:15:54 AM

「香水」

百貨店の前を通り過ぎるとき、香水の瓶が目に入る。複雑にカットされた透明なガラス瓶に薄い桃色の液体。

制服に着替え仕事に取り掛かる。オフィスビルの清掃の仕事に香水は必要ない。

帰り道、別の百貨店のショウウインドウに四角いシャープな瓶に青い液体。扁平な楕円の瓶に琥珀の液体。

今日に限って香水の瓶が目につく。足早に通り過ぎて地下鉄に乗り込む。一度乗り換えをすると昼間だから最寄り駅までは座れる。清掃の仕事のいいところは、電車の混雑から逃れられること。朝は早い。早い分、終わりも早い。

介護が必要になって実家に帰って驚いた。よくこんなに物を貯め込んだものだ。母が元気なうちは、これはいらない、これは取っておいて、など少しずつものを減らしていったが、残しておくものが多すぎる。

結局、母が亡くなってからでないと捨てられなかった。私にとってはガラクタでも、母にとっては大切なものなのだろう。母の意思を無視することはできなかった。

父が中学2年生の時に亡くなって、それからは再婚もせずに一人で育ててくれた。父と暮らした家を出て、この団地に落ち着いた。3DKの母の城。

業者の手も借りてすっきりとした部屋は一人では広すぎる。そうだね、広すぎる。母が物を貯め込んだ理由がわかる気がする。

仏壇に母の遺品の香水の瓶を置いた。遺品整理中に鏡台の奥から出てきたもの。未開封のそれは誰かからのプレゼントだったのだろうか。箱の黄ばみから相当古いものだとわかる。父から?記憶の父を呼び戻しても香水と結びつかない。

香水とは縁のない私でも知っている、シャネルの5番。なぜ使わなかった?見えないように隠したの?手の中に収まる小さな瓶。私の知らない母を知っているんだね。

8/30/2024, 9:32:59 AM

「言葉はいらない。ただ…」

ようやく雨が止んだ。ご飯にはまだ早いけど縁側でビールを開ける。少し飲んでおかないと話す勇気が出ない。

何でも話すあなたと言葉にしなくても察してほしい私と、いつも噛み合わなくてけんかばかり。でも今日はちゃんと話さないといけない。

「ただいま、どこ?」

いけない。いつの間にか暗くなっていた。

「縁側」と声を掛けるが動けない。

「どうした?」

「あのね」

言いかけて言葉に詰まる。

「いいよ、後で。着替えて来るね」

トントンと2階に上がりクローゼットを開ける音がして、着替えている気配を感じる。嫌だなあ。離れたくないな。着替え終わったのか顔を洗う音がする。ごめん。お風呂の支度しておけばよかった。またトントンと階段を降りてくる。

「ご飯作ろうか?」

「もう出来てる」

「どうしたの?」

隣に座って顔をのぞき込まれる。そうだよね。何でも話してくれるし、何でも聞いてくれる。だからちゃんと話さないと。でも、言葉が出てこない。言えない言葉が涙になって頬を伝う。

そっと胸を包まれる。

「もしかして?」

ただ頷く。

後ろからそっと抱きしめられる。ずいぶん察しが良くなったね。乳房に手が伸びてやさしく揉まれる。あと何回こうしていられるんだろう。まだ何も言わないで。ただもう少しこのままでいて。

8/29/2024, 7:55:35 AM

「突然の君の訪問。」

台風の影響で大雨が降っているが、百貨店の中は別世界。台風はまだ四国沖を停滞中で風はまだ強くない。ただ台風から離れたところでも雨はひどい。

売ってる私が言うのも変だけど、仕事にしろプライベートにしろ、普段生活するには贅沢すぎる洋服を雨の中、わざわざ買いに来るだろうか。よく潰れないなと庶民の私は思う。仕事で必要だから社割で必要最低限は買うが、自分では絶対に選ばない。

でも、予想に反して客足は悪くない。昨日から販売開始となった新作が目的の人が多いようだ。新作は早い者勝ちだ。グズグズしていると人気のサイズはすぐになくなる。

「いらっしゃいませ」

新たに入ってきたカップルの客に声をかけてしばらく放っておく。視界の片隅に入れておいてスタッフを探す素振りをするとすかさず近づく。彼女が手にしているのは新作のワンピース。お目が高い。かく言う私は同じ柄のブラウスに無地のスカートを組み合わせている。

「試着お願いします」
という彼女に私と同じスカートの色のカーディガンもすすめて試着室に送り込む。この色と柄の組み合わせは私のお気に入りなのだ。

シャリンと試着室のカーテンが開いて彼女が姿をあらわす。着ていた服はゆったりしていたけどスタイルがいい。体のラインが出るこの服の方が絶対に似合う。

「よくお似合いです」

お世辞抜きにそう思う。

「これにする」

彼女は少し離れた彼に伝える。背中を向けていたがこちらに向き直って近づいてくる。
ああ、君か。ドヤ顔で「1回払いで」とカードを差し出してくる。

何年か前に別れた年下の元彼。彼女にうちの店の洋服をプレゼントできるようになったら認めてあげる。その時は連れておいでと言って別れた。定職につかず私に頼りきりだったから追い出したのだ。

支払いを済ませ包装する間、彼はじっと私の手元を見つめている。袋を渡す時、よかったね、おめでとうと目で伝える。彼の出で立ちは高価ではないけれど落ち着いたシンプルなもので、昔のようなツンツンした感じは微塵もない。大人になったね。

「店長、いいことありました?」

見えなくなるまで見送りを済ませ店内に戻ると後輩に言われる。

「とってもうれしいことがあったよ。でも内緒」

突然で驚いたけど本当にうれしい。見捨てるように別れたから気になっていた。よく頑張ったね。

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