「麦わら帽子」
何気なく開いたアルバムには妻の子どもの頃の家族写真がたくさんある。今はあまり似てないけど、娘の小さい頃にそっくりだ。私の知らない妻の姿。かわいい。
とびっきりの笑顔の写真がある。赤い水着に水色の浮き輪、ピンクのビーチサンダルに麦わら帽子。場所は建て替え前のこの家の庭のようだ。これから海に行くのだろうか。そんなに楽しみなのか?見ているこちらまで笑顔になる。
「手が止まってる」
妻の厳しい声がする。
「見て」
「あー、それね。新しい水着がうれしくてその日海に行く予定はないのに、勝手に着替えてはしゃいでたの」
「それであの笑顔」
「そう」
「ねえ、家に帰ったらさ、美佐の写真と並べてみようよ。そっくりだよ」
「そう?自分じゃわからないけど」
「動物園に行ったとき、白い帽子被って赤いポーチを肩にかけてる写真にそっくりだよ」
写真を見つめる妻が懐かしそうに目を細める。なぜだか頭をなでたくなった。麦わら帽子の女の子。そっと頭に手を乗せてぽんぽんとしたら「何?」とにらまれた。
「かわいかったから」
「子どもの頃のことでしょ」
「その頃はまだ知り合ってないから、今した」
「何それ」
少し笑って妻は持ち場に戻った。義父の遺影に「これからもちゃんと幸せにしますから」と妻には届かないように小声で言った。
お盆休みに実家の片付けをしている妻の元に来た。びっくりさせたくて内緒にしていたら、顔を見るなり泣き出してこっちがびっくりだ。葬儀のときはぎっくり腰で来られなかった。本当に申し訳ない。
近所の人と話す妻は家にいるときとは別人に見える。話していることの半分はわからないけど、こういう場所で育ったから今の妻があるのだということだけはわかる。
不思議だよな。こんなに違う環境で育った二人が三十数年を共に生きて笑い合っている。
麦わら帽子の写真をスマホで撮った。なんか悔しいぞ。妻を笑わせるのは私の役目なのに。絶対にこれ以上の笑顔にしてやる。
「終点」
「終点までですね。良い旅を」
南極にある地球ステーションから宇宙鉄道に乗る。銀河鉄道を延長して宇宙の果てまで行けるそうだ。宇宙に果てなんてあるのか?という疑問はスルーして、全財産を注ぎ込んだ特等の個室に入る。最後尾の車両に3つの個室の中でも一番後ろの部屋だ。
ゆっくりと見えるだけで本当は猛スピードで地球を離れる。地球ステーションが南極にあるのは、どの国にも属さないからだ。ステーションをめぐってきな臭い噂はあったが、金に物を言わせた世界的な富豪が南極に決めた。たとえ核戦争が起こっても南極だけは国際法上守られると決まっているからだ。
帰る頃には地球はどうなっているだろうか。いや、寿命が尽きるまでに帰れるのか?できればこの旅の途中で死にたいものだ。オプションで申し込んだブラックホール埋葬がこの旅の目的なのだから。
宇宙鉄道の旅の途中で死んだ場合、遺体は荼毘に付され、最寄りのブラックホールに散骨される。オプションのブラックホール埋葬では、遺体は特殊なカプセルに入れられブラックホールに吸い込まれる。
ブラックホールの向こう側なんてワクワクするじゃない?カプセルは半永久的に遺体を保存できる。未知の天体にたどり着いて再び生命を吹き込まれるかもしれない。あるいは押しつぶされて跡形もなく消え去るのか。宇宙を旅することができるようになってもブラックホールは謎のままだ。
トントンとドアをノックする音がする。
「乗車券を拝見します」
終点と書かれた乗車券を差し出す。
「終点までの所要時間は無限でございます。いつまでも旅をお楽しみくださいませ」
さあ、無限という名の有限の旅、楽しむぞ!
「上手くいかなくたっていい」
一人だけ跳べなかった。一段ずつ積み上がる跳び箱。ほとんどの子は6段、よく跳べる子は8段。その中で4段が限界だった。
みんなはやさしいから慰めてくれたけど、本当は馬鹿にしてるってわかってた。とろくて勉強できないのに体育もだめで、劣等感ばかりが積み重なる。
逆上がりもそうだった。私以外、全員ができるようになった。跳び箱は体育の時じゃないとできないけど、鉄棒ならいつでもできる。朝早く、一番に来る教頭先生よりも早く学校に行きランドセルを鉄棒の近くに置いたまま練習する。
教頭先生が来た。
「毎日よく頑張るね。上手くいかなくたっていい。そうやって努力することが大事」そう言って頭をなでてくれた。とうとうできたとき、教頭先生がわざわざ出てきてくれた。
「おめでとう」
教頭先生、私は今も頑張ってます。社会人になって後輩ができました。教頭先生のように「上手くいかなくたっていい」とは、なかなか言えません。ついイライラして「なんでこんなこともできないの!」って言ってしまうんです。
「努力することが大事なんだよ」
そうですよね。努力するから最初は結果が出せなくても、いつかは努力が実るわけで、そういう人には「上手くいかなくたっていい」と言ってあげたい。
努力って、いつから美点ではなくなったんでしょう。最初から努力しない人に「上手くいかなくたっていい」とは言えません。それは先輩である私の努力が足りないからなのでしょうか?
「蝶よ花よ」
自分によく似た人が三人はいるという。それにしても似すぎてはいないだろうか。雑誌の中に自分そっくりの人間がいる。顔だけだけど。
ふんわりとした少し茶色の髪が肩のあたりで揺れている。柔らかく微笑んでいるその人は、「現代の深窓の令嬢」という特集のなかでも、ひときわ輝いている。蝶よ花よと育てられたらこうなりました、という見本のような容姿だ。見た目の美しさだけではない。その内面がにじみ出るようだ。苦労などしたことがない、人を疑うことも知らない純粋さ。
ぱたんと閉じる。
「どうされましたか?」
美容師が聞いてきた。はじめての美容室で髪を切っているところだった。目の前に置かれた雑誌をぱらぱらとめくっていたら、その写真が目に入ったのだ。
何気なくそのページを開いて見せた。
「似てると思っただけです」
「本当ですね。あの、このあとお時間あります?」
「ええ、大丈夫ですけど、何か?」
「少し遊んでいきましょうよ。カラーをしてもいいですか?それから、ショートをご希望でしたけど、今だけ違う髪型にさせてください。後ほどご希望どおりにいたしますので。もちろん、お代は1回分のカット代金のみで結構です」
どうせ私を待っている人などいない。いつもは家の近くで切るが、たまには職場の近くでと、仕事帰りに予約を入れた。
「いかがですか?」
そう言われて鏡を見て驚いた。雑誌と同じ顔がそこにある。
「実は私、加賀美友理さんの担当をさせていただいております」
加賀美友理、知ってるよ。
「本当に驚きました。こんなに似ていらっしゃるとは。まるで双子のようですね」
双子?言われてみれば、そうなのかもしれないと思い当たる節がある。だからどうだというのか。
「ご希望通りにお直ししますか?」
「いいえ、せっかくですからこのまま帰ります」
もう一度鏡を覗く。髪型に似合わない味気ないスーツ姿。ショートカットなら似合うのにな。美容室を出て駅まで歩く。
生き別れた双子か。今頃どんな誕生日を過ごしているのだろう。お父さんは元気なのかな。新しいお母さんはやさしい人?
母が亡くなったときにも連絡はしなかった。もう縁は切れているのだから。私は佐久間汐理、加賀美とは関係ない。
翌日、いつもの美容院でショートカットにしてもらった。この方が落ち着く。蝶よ花よとはいかなくても、母の愛情をたくさんもらった。友理、お母さんの愛を独り占めしてごめんね。あなたは今幸せなの?
「最初から決まってた」
「お疲れ」
そう言って一緒に会議室を出てきたのは同期のなかでも一番のライバル。今日の勝者。もうすでに秘密裏に動き出したプロジェクトを手続き上の公平さを保つためだけに開かれた今回のプレゼン。俺ともう一人選ばれた奴との三人で争われた。
「お疲れ」
内心の諸々を隠したまま、さりげなく悔しさをにじませる。もう一人は憮然としたまま俺たちを無視して足早に去る。
「アイツのこと、フォローよろしくね」
「まかせとけ。おめでとう。すごくよかったよ」
それは本心だった。いつも彼に勝てる気がしなかった。頑張れよと声をかけてからもう一人を追いかけた。
「一緒に飲みに行こう」
「別に慰めてくれなくてもいいですから」
「慰めるも何も、俺も同じ立場なんだけど?」
「先輩は悔しくないんですか?」
「悔しくないよ。最初からわかってたし」
「わかってたから、いいかげんなプレゼンしたですよね?」
「俺のがいいかげんに思えたなら、アイツの方が出来が良かったってことだろ?負けは負けだ」
平然としているが、本当は自分に言い聞かせてもいる。出来レースと知っていたからと言い訳するつもりもない。実力の差だ。何をしても奴には敵わない。
「同期の俺が敵わないのに、後輩が勝てると思うなよ。つべこべ言わずにつきあえ」
こうして諸々飲み込んで今日を終える。そうだな、こんなだから敵わない、わかっているけどさ。