「太陽」
何もかも嫌になって動きたくない。太陽のせいだ。直接見るわけにはいかないので、くっきりとした影と日向の境目を睨む。この線から一歩も出たくない。
しかし冷蔵庫の中は空っぽで毎日ちまちまと作っていた麦茶のパックもなくなった。スーパーに行こうにも、行くには炎天下に野ざらしの車に乗らなければならない。
「こんにちは」
太陽が傾いてから、きゅうりとトマトが来た。と言ったら失礼か。ご近所さんの1人が採れたての野菜を届けてくれる。いろんな人が届けてくれるものだから、きゅうりとトマトはしばらく買っていない。
遺品整理が大変だというのは聞いていたが、連日の暑さで大変さは何乗にも感じられる。しかし、父の残した数多くの道具類は価値のわかる人には貴重なもののようで、こんなものまで持っていってくれるのかと驚く。
暑さに負けて放置した段ボールの山。明日こそは束ねよう。
とりあえず目につかないようにしておけば満足だったのだろう。物置の中の状態ときたら…電話会社の請求書、給与明細、叔母からの手紙、使いかけの軟膏、顔そり用のカミソリ、新品の刷毛、古い下着、父の道具類、我が家からの手紙もあった。
不可解な物たちは燃えるゴミ7袋、燃えないゴミ1袋にまとまった。正午まで作業しシャワーを浴びる。死にたくないから午後は休む。本を読んで、うとうとして、高校野球をみる。
明日も太陽は容赦なく照りつけるだろう。頑張ろう。
「鐘の音」
テレビから聞こえる鐘の音とともに一分間黙祷する。そういえば、昨日観ていたドラマのチャンネルのままだったはずだ。8時にテレビをつけたら普通に式典の中継をしていたから違和感なくそのままにしていた。途中でCMが入ることもなく、NHKだと思い込んでいた。関東ではNHKしか中継していないから。広島では民放でも中継するのだ。
1945年8月6日午前8時15分
その日その場所で瞬時に命を奪われた人、原爆病で苦しんで亡くなった人、今も苦しんでいる人。記号のように刻み込まれた日付と時間。79年を経た平和な今を生きる私にとっては記号かもしれない。その記号は、確かに存在した、今も存在する一人一人の命を表す。
その記号を、母が祈る姿だと我が子たちに伝えたつもりだ。母の祈りの向こうに原爆の悲惨を、核兵器を憎む心を感じてほしい。経験していないことを伝えるのは難しい。しかし、祈りは私の現実であり経験だ。間接的でいい。この記号を記憶に留め伝えてほしい。知りたいと思ったならば知る手段はたくさんあるから。この記号さえ伝わらない世界にしないために。
「つまらないことでも」
1枚の絵葉書を飾った。緑の中にすーっと伸びる一本の道。
「気になるわよね。この道の先に何があるのか」
そう言って背中を押してくれた人がいた。
どこに進むべきかわからず立ちすくんでいた。でも、わからなくても前に進むと決めた。
朝起きて窓を開ける。新鮮な思いっきり空気を吸い込んで、空を見上げる。それだけで少し元気になる。朝食とお弁当を作る。「いただきます」と声に出してほかほかのご飯をいただく。
私の道がどこにあるのかまだ見つからない。誰でもできる仕事で私の代わりはいくらでもいるだろう。でも、あのとき背中に感じたあたたかさは今も私を包んでいる。
つまらないと思っていた仕事を丁寧に考えながらするようになった。指示されたことをこなすだけで、結婚するつもりだったから契約社員のままで満足していた。
何がしたいのかわからなくても、何ができるかなら知っている。5年も働いてきたのだ。この仕事をもっと頑張ることも、あの道を進むことになる?
「すみません」
お客様に声をかけられ、問い合わせに答える。笑顔になって去っていく姿が印象に残る。そうだよ、ここに、私のすべきことがある。
ずっと断り続けていた資格を取ることにした。つまらないことでも丁寧に、そう意識を変えたら、つまらないことなんてないと気付いた。
まだ歩き始めたばかりだけど、見えたよ。私の道。
「目が覚めるまでに」
三人を寝かしつけてそっとドアを閉めた。これからが私の時間。食卓の大きなテーブルにミシンを出す。
雫と澪と私、三人おそろいの服を作っている。雫と澪にはワンピース、私にはスカート、おまけで爽には同じ生地でよだれかけを作った。
服作りはミシンまでたどり着くのが大変だ。少しずつ準備を進めてここまでたどり着いた。複雑なところはカタカタと、直線はダダダッと、少しくらいずれたって大丈夫。縫い代と縫い始め、縫い終わりの処理をして、できた!
ここからは仕上げ。ミシンを片付けてアイロンを出す。縫い代を開いてアイロンをかける。ハンガーにかけて並べてみた。我ながら良い出来。目を覚ますのが楽しみだ。
カチャ。鍵の音がする。
「ただいま」と小声で言いながら、夫がリビングに入ってきた。
「おお!すごい」
「でしょ。お腹空いてる?」
「少し食べたけど、あるなら食べたい」
「今日は唐揚げだったんだけど、こんな遅くに無理かな。だめならお茶漬けにする」
「両方はだめ?」
「じゃあ、唐揚げは2個ね。待ってて」
さっきまで作業台だった食卓は元に戻り、洋裁職人だった私は、ただ夫が好きなだけの妻に戻る。
明日の朝が待ち遠しい。
「病室」
手術を終え体は日々回復する。病棟の廊下を一周すると百メートル。看護師と一緒にはじめは四分の一の距離をゆっくり歩いた。装着された心電図を見ながら、少しずつ距離を伸ばす。そのうち一人で歩いてよいと許可がおり、心電図も外された。すると今度は逆に、一日に最低五周は歩くようにと指示が出る。
自分でも回復しているのがわかる。入院前は一歩足を前に出すのさえしんどかった。今は休み休みでも五周を歩き切ることができる。
毎日歩いていると仲間ができた。私とは逆方向に歩く人。年齢は一回りくらい上の小柄な女性だ。すれ違うたびに会釈を交わし、そのうち話すようになった。肺がんの治療中で、もうすぐ副作用で歩けなくなるから今のうちに歩いておくのだそうだ。
あっけらかんと笑顔で話すから私も笑顔で返す。「待ってますから」と。
それから私は外を歩くようになった。病院の敷地内なら自由に歩いていいことになり、とにかく歩いた。最初に診てくれた医師と廊下ですれ違った時「顔色が良くなったね」と言われ、回復を実感する。
廊下に出るたび、あの人はいないだろうかと探すが、別の人が歩いているばかりだ。
とうとう退院の日を迎えた。前日に手紙を書いた。退院前にナースステーションに行き手紙を託した。そしたら、会ってもいいと言ってくれて、はじめて病室を訪れた。
歩いているときとは別人のように弱々しく横たわっている姿に涙がこみ上げるのを必死でこらえた。
「元気になったらお返事するね」
私は何と声をかけただろうか。今となっては忘れてしまった。
「またね」と互いに言い合って病室の戸を閉める。
何ヶ月か経って手紙をもらった。今は自宅に帰っているそうだ。でも、がんとの闘いはまだまだ続く。手術して良くなった私とは違う。
なんて書けばいい?すっかり元気になりました。行きたかったコンサートにも行けました。子どもと鎌倉に出かけました。建長寺の半僧坊に登れました。もうすぐ仕事に復帰します。
書きかけて破り捨てる。そのときの私はあの人にかける言葉を持たなかった。連絡はそれきり途絶えてしまった。私のせいだ。
今なら正直に言葉が見つかりませんと伝えるのに。あの人の姿は、ベッドに横たわったあの時のまま、ずっと更新されないで私の中に残っている。