「明日、もし晴れたら」
フロントガラスを雨が打ちつける。もう勘弁してくれ。家の中は洗濯物でいっぱいで、雨の嫌いな妻はご機嫌斜めだ。
恋人だった頃はもっとやさしかったのにな。二人で一緒にいるだけで幸せだったのに、欲張りになったものだ。妻が笑わないのは雨のせいだけじゃない。わかってる。
このところ残業続きでまともに顔も見ていない。先週の休みもつきあいでつぶれた。今朝も少しすれ違うだけだった。明日の休みは仕事の予定はない。妻を思いっきり甘やかそう。
ぐっすり眠る妻の隣に起こさないようにすべりこんだ。規則的に肩が上下に動く。後ろから抱きしめたいのを我慢して眠りにつく。明日、もし晴れたら…
窓の外の小鳥の声、カーテンの隙間からもれる光。ああ、晴れたんだ。
ん?なんだ?頬、耳、鼻、くすぐったい。でも眠くて目を開けられない。腕を伸ばしてつかまえた。腕の中に閉じ込めるともぞもぞと後ろ向きになった。そうか、昨日あのまま抱きしめればよかったんだ。
また意識が遠のく。次に目を覚ましたらどうしようか。
「だから、一人でいたい。」
コツンコツンと靴音が響く。音のする方向を見ると夫婦と思しき二人連れだ。それなりにおしゃれな格好の奥様である。白地に花がらのワンピース、真紅のパンプス、小ぶりのバッグを手に持っている。
夫の方は細身のパンツにカジュアルなジャケット、スニーカーで、二人並んでいるとアンバランスな感じも受ける。しばらくは靴音以外静かだったが、途中から夫の方が展示内容について妻に解説をし始めた。
いくら小声で話していても周りが静かだから声は響く。有意義なものなら耳も傾けようが、薄っぺらい誰でも知っていることをペラペラとよくしゃべる。奥さんは楽しんでいるんだろうか、気になってそちらを見ると、夫に気づかれないようにあくびをしている。
こういう男に出会うたび、一人で来て正解だと思う。もっとも、わが夫にこの展示の解説は無理だけどね。せっかく好きな絵を観に来ているのだから、自分のペースでじっくり向き合いたい。だから、こういう場所では一人でいたい。
ねえ、いい加減しゃべるのはやめてさ、真剣に絵と向き合おうよ。邪魔しないでもらえるかな。
「嵐が来ようとも」
もう何日も陸地を見ていない。正しい方向に向かっているのか、それすらわからない。けれど進むしかない。流刑地を抜け出してどこに行こうというのだ。そう言って残る者の方が多かった。
その島は6カ国が利用する共同流刑地であった。そこに流されるのは政治犯と決まっている。国家に対する反逆を企てた者、為政者を批判した者、禁止された思想の持ち主などだ。
6カ国は元は同じ国だった。6つの民族が共存する帝国で、皇帝は順番に選ばれ平和が続いていた。それがある民族から独裁者が出現し武力で他の国を圧倒し独裁体制をしいた。
この島は帝国であった時代から流刑地であったが、殺人など凶悪犯が送られる島だった。それが独裁体制以後、独裁に反対する者たちが送られる地となった。
絶海の孤島だけに牢獄などなく、島にいる限りは自由だった。凶悪犯も自由を満喫し悪事を働くこともなくなった。
しかしである。政治犯が来るようになって事情が変わった。独裁に反対してここに来たはずなのに、島の秩序を作るとかなんとか、本国も顔負けの独裁体制ができつつあった。
元からいた凶悪犯たちはあとから来た政治犯と区別され、集団で住むことを強要され建設中の牢獄に入れられるという噂が広がっている。
意を決した人々は嵐の中を出港した。たとえ海の藻屑となろうとも自由を失うよりはましだ。嵐が来ようともその決意は揺るがない。
今日も漂流しながら残りの食料をめぐって争いが起こるだろう。凶悪犯が凶悪犯に戻るときが来るのか、無事に陸地にたどり着くのか、はたまた皆で餓死するのを待つのか誰も結末を知らない。
「澄んだ瞳」
今日もいつものハンバーガー屋で夕食を済ます。いつもの君に会えなくて少しがっかりする。
「いらっしゃいませ」
初めて君がここに来た日、控えめに発せられた声、まっすぐにこちらを見つめる瞳、君が待つカウンターへと吸い寄せられた。
わかっている。僕はただの客。君の澄んだ瞳は誰にでも向けられる。それはわかっているけど、僕の前に立つ時だけは僕のものだ。
気持ち悪い?そうだよね。大丈夫。そう思うのはここにいるときだけ。店を出ればもう関係ないのだから。
今日は会えなかったから、食べ終わると早々に店を出た。駅に向かう途中、誰かが僕の前に立った。澄んだ瞳の君。
なぜ?
「こんばんは」
店じゃないのになぜ?
誤解してしまうよ、君の瞳が特別になるよ。
「あなたの澄んだ瞳が好き」
その言葉は僕がずっと思っていたこと。君からその言葉を、僕に?
「お祭り」
駅を出ると毎年恒例の近所の神社の例大祭の日だと気がついた。改札を出るなり人波に飲み込まれる。右から左へ神社に向かう人々に逆らって進む。
車を通行止めにして道の両側に出店が並ぶ。夕飯に何か買って行こう。とうもろこし焼、たこ焼、いか焼きを買ってアパートに続く路地に入った。ようやく人混みから脱出して深呼吸する。
昼間には神輿も出ていたらしいが毎年見たことはない。神社には神楽殿もあり、毎年神楽が奉納されるそうだが、これも見たことはない。
祭りというと、鬼に追い回され怖い思いをした思い出でしかない。でも、祭りの出店で買って食べるのは好きだ。
テーブルに買ってきたものを並べる。お祭りの匂いだ。ソースや焦げた醤油の匂いが食欲をそそる。缶ビールを開けると一人で乾杯する。
まずはいか焼きにかじりついた。焦げた醤油はなぜこんなに美味いんだ?ビールも進む。ピコンとスマホの通知音がする。
「矢野の家、神社の近くじゃなかった?一緒に飲まない?祭りでしょ」
まあまあ仲の良い同僚からの誘いだ。時折距離が近すぎて戸惑うことがある。人懐っこいのはいいが、そこまで近くなくても。
「もう家に帰ったからまた今度」と返しておいた。
「今から行く」
はあっ?と声に出た。
行くって、ここを知ってるのか?
「場所わかるから」
とりあえず部屋干しの洗濯物を押入れに押し込み、散らかっているゴミを片付けた。仕事の時のままの格好だが着替えたほうがいいのか?考えているうちに呼び鈴が鳴った。
ドキドキしながらドアを開ける。さっきまで一緒に仕事をしていた松野が立っていた。
「こんばんは」
彼女もいろいろ買い込んでいた。しかし、俺なんかの部屋に同僚とはいえ、女の子がいる!なんでた?
袋から出てきたものは、いか焼き、たこ焼き、とうもろこし焼。彼女も気付いたみたいで大笑いする。
「矢野とは食べ物の好みが似ていると思ってたけど、ここまでとは!」
二人で乾杯をした。
「来年もその次の年も、一緒に飲もう」
その意味をどう捉えればいいのか…眠くなったと肩にもたれてくる。勘違いでなければいいが、と思いながらそっと肩を抱いた。
「正解」
笑顔の君に見つめられ、恋に落ちた祭りの夜。
『誰かのためになるならば』
「長い間お世話になりました」
深々と頭を下げて職場を後にする。これまで一人で生きてこられたのは、この仕事があったからだ。仕事をしていれば、こんな私でも誰かのためになることをできていると思えた。でも、これからは?
「ごめんなさい」
公園のベンチでぼんやりしていたら広場の方からサッカーボールが転がって来た。こちらに駆けてくる子どもたちを手で制すると思いっきり蹴った。もっと飛ぶはずだったが、子どもたちの手前で力なくぽとりと落ちた。ころころと転がって無事に届いた。
「ありがとうございました!」
元気な声にこちらも笑顔になる。手を振って応えると少し気が楽になる。仕事をやめても人との関わりがなくなることはない。小さなことでもできることがあるはずだ。さっきのようにボールを蹴り返すみたいに。
『神さまが舞い降りてきて、こう言った』
そこは魂の溜まり場。死にゆく者たちが集い、再び生を受ける時を待つ場所。
新参者の私にどこからから神様が舞い降りてきて言った。
「次に生を受けるまで、今生の後悔があれば悔い改め、次の生に心置きなく移れるようにしてください。反省すべきは反省し、謝罪すべき人には謝罪し、生前の己の行いを見つめてください。ここにいる方々は直前の生で一番幸せだった頃の姿をしています。あなたはこんな姿です」
神様が手をかざすと鏡が現れた。そこに映っていたのは、若い結婚したばかりの頃の姿だ。意中の人と結婚でき、すぐに子どもも産まれて本当に幸せだった。
いつの間にか神さまはいなくなり、限りなく続くお花畑の中にポツンと一人で立っていた。一番に浮かんだのは一年前に亡くなった妻だ。亡くなる前、入院中の病院に訪ねることを拒まれた。いよいよというときになってようやく会うことを許してくれた。そんなに会いたくなかったか。
幸せだったか?後悔はなかったか?聞いてみたいことがたくさんある。
遠くにうずくまって何かをしている少女を見つけた。近づいてよく見ると子どもの姿をした妻だった。忘れるわけがない。教室の片隅からいつも見つめていたのだから。
自分で告白する勇気もなく、大人になって結婚を世話してくれる人に頼んだ。妻はなぜ自分なのかと不審に思ったかも知れない。そういう気持ちはおくびにも出さず、普通のお見合いを貫き通した。
承諾してくれたときのうれしさといったら!でも良かったのはほんの数年で、心を通わすことが出来なかったのは私のせいだ。それなのに当たり散らしてばかりいた。嫌われるのも当然だ。
少女の姿をしているということは、結婚は幸せではなかったのか…
心置きなく次の生に移れるように」と神さまは言った。とうすればいい?なんと言えば妻は私を許してくれる?私は一人で途方に暮れる。