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7/25/2024, 8:54:02 PM

「鳥かご」

主のいなくなった鳥かごは当たり前だが空っぽだ。朝起きたら動かなくなっていた。緑色のセキセイインコ。父が私にくれた。

タクシー運転手の父が朝帰宅すると手に鳥かごを持っていた。かわいい声でさえずるその子はぴーちゃんと名付けられ我が家のアイドルになった。

どういうわけで怪我をしたのか、まだ幼かった私にはわからない。足を引きずっていたので父が病院へ連れて行った。帰ってきたらギプスをしていた。

そんなときに父が入院して手術をすることになった。手術室に入る前も出てからも、ぴーちゃんのことを心配していた。なのに…

動かなくなったぴーちゃんを手のひらに乗せた。すごく軽かった。「お父さんの病気を持って旅立ったのかな」と母が言う。父になんて言えばいいんだろう。ぴーちゃんが死んでしまったことより、父が悲しむことのほうが私には悲しかった。お世話が足りなかったんじゃないかと自分を責めた。

退院するまで言えなかった。家に帰ってから父に話した。空っぽの鳥かごを見せて「ごめんなさい」と言った。父は私の頭をぽんぽんした。それだけだった。

あの鳥かごはいつの間にかなくなり、他の鳥が入ることはなかった。

その父も旅立った。あれから父は50年以上生きた。穏やかに眠るように逝った。寝顔のような穏やかな顔。昨日は返事をしてくれたのに、もう何も言ってくれない。

間に合わなかった。午前4時、急変したと病院か連絡があり急いで駆けつけたが、父の心臓はもう限界だった。ありがとう、お父さん。最後にそう言いたかったのに。

7/25/2024, 1:57:28 AM

「友情」

不器用な私が組紐に挑戦するなんて思いもよらなかったけど、この講座を続けて受ければ帯締めを作れると聞き、頑張って通っている。ある帯に合わせたい帯締めがどうしても見つからなくて、ないなら作っちゃえと飛び込んだが、初日に後悔した。

それでも小さな輪っかから始まって、キーホルダーなど段階を踏んで簡単な四つ組の帯締めは完成した。今日は本丸の八つ組の帯締めに挑戦だ。

帯を持参してそれに合う糸を選ぶところからだ。青地にパステル調の色で花が染め抜かれている。春にふさわしい色だ。花の中から四色を選んで組んでいく。四つ組とは桁違いの難しさだ。

目の前の次の手に集中して他のことは何も考えない。それでも気がつくと間違えている。先生に指摘され間違えたところまで糸を戻す。台の下に次第に長く紐が組まれていくさまが不思議だ。

「はい、ではこれから昼休憩です」

今日の参加者は5名ほど。そのうちの1人が食事に誘ってくれた。

「ここのお蕎麦、おいしいんですよ」

江戸時代の町が再現され、伝統的手仕事などを体験できる博物館。ここで供される蕎麦はここで栽培された蕎麦から作られるそうだ。いつもは近くのコンビニで買って済ませていたが、帯締めが完成すると来なくなるからちょうどいい。これも体験だ。

ぎしぎしと音を立てる急な階段を上り、セルフサービスのお茶を入れる。自己紹介や組紐大変だよねなんてことを話していたら、時間はすぐに過ぎていく。噂に違わぬおいしい蕎麦で、ここでは昔ながらの農法で育てた野菜や米の収穫体験もできるそうだ。

組紐の他に陶芸、機織り、竹細工、染め物などを体験済みで、お子さんと一緒に鍛冶屋の体験をしてペーパーナイフを作ったとか。ここでの体験は奥が深い。組紐で帯締めが作れると有頂天になっている場合ではない。

「ごちそうさまでした」

本当においしかった。よし、午後からも頑張ろう。

「よかったら、完成した帯締めを締めて一緒にお出かけしない?」

夫の転勤についてきた見知らぬ土地で、いつも一人だった。まだ友だちとは言えないけど、これからなれるかな?いくつになっても友情は育めるよね。

7/24/2024, 5:16:21 AM

「花咲いて」

今日も抜かりなく暑い。朝のうちに30度を超え容赦なく照りつける太陽が皮膚をさす。いつもの私なら文句の一つも口にしていただろう。しかし、今日の私は違うのだ。

とはいえ、不安がないわけではない。万が一にも彼が反対なら?そんなことはない、彼なら大丈夫。体調が悪いからと、しばらく彼を遠ざけていたのは、自分の気持ちを決めるためだった。

でも、今さらと思う自分もいる。避妊をしなかったとき、すでに気持ちは固まっていた。産婦人科を受診して妊娠が確定して、その足で母子手帳をもらってきた。

クリニックの敷地に植えられた百日紅。秋には葉を落とし枝を切られても、夏が来ればこうして枝を伸ばし花が咲く。真紅の花は真夏の空にきっぱりと咲く。

何度も行った彼の部屋。抱きしめられてずっとこのままでいたいと思っているのは私だけなの?その思いに終止符を打つために行動を起こした。その結果が、今。

二人でベッドに寝転んで天井を見上げる。

「ここに赤ちゃんがいる」

彼の手をお腹にのせた。少しの沈黙。

「一緒に育てよう」

二人で向き合いキスをする。

あなたは思った通りの人。後悔はさせない。

7/22/2024, 10:25:33 AM

「もしもタイムマシンがあったなら」

仕事終わりに少しドライブをして高台に来た。ここは夕日がきれいなんだ。落ち込んでいても忘れさせてくれるくらいきれい。

別にね、怒ってるわけじゃない。ミスなんてあって当然だし、そのことで責めるつもりもない。だけどね、あなたのミスで増えた仕事をあなたが最後まで見届けなくていいわけ?

何か言えば〇〇ハラだとか言われるし、でも言わないと仕事覚えられないでしょうが!ああ、もうストレスたまる。私が新人の頃はもっとしっかりしてたはず。いや待て。自信がないな。

タイムマシンがあれば新人時代の自分を見たいな。もっとしっかりしてたよね?

今日も美しい。山の端に沈んだ太陽が雲を赤く染める。深呼吸をして車に戻る。さあ、もう仕事のことは考えない。お腹すいたな。夕飯を作ろう。

もしタイムマシンがあったなら、もう料理が出来上がった頃に行きたいな。そして食べ終わったら、片付け終わる時間に行くの。誰かそんなタイムマシン作って。

7/22/2024, 10:04:42 AM

「今一番欲しいもの」

ショッピングモールを隅から隅まで歩き回り、何一つ欲しいものを見つけられなかった。今日は誕生日。私が働く会社には誕生日休暇があり、5,000円が支給される。

それで最寄りのショッピングモールに来たが何にも欲しくない。物欲はどこへ行った?洋服もバッグも靴も、いくつ持っていたって新しいのが欲しかったじゃないか。

疲れてモールを出た。適当に車を走らせいつもは通らない道に行ってみる。そうだ、近くに美術館があった。そこにしよう。入館料1,200円。レストランもあるからちょうどいい。

歩き回って疲れたから、早いけどランチにしよう。地元で採れる野菜が中心の気軽なフレンチ。広々とした庭園を眺めながらゆっくり味わう。なんともぜい沢な時間だ。そうね、欲しいものはないけど、こういう時間なら欲しい。

ランチの後は美術鑑賞。平日の昼間ってこんなに空いてるんだ。印象派から現代美術までいろいろある。そういえば現代美術を面白いと思ったのは、ここで観たときのこと。

ここで一番好きなのはロスコルーム。今日は貸し切りだ。静寂の中に黒と赤の世界が広がる。一枚1枚一念に味わったあとは、真ん中の椅子に座り目を閉じる。絵を観に来たのに目を閉じる?

近くでじっくり観たときの色と色の境目のゆらぎ、吸い込まれそうな窓のような形。それを頭の中で再構成して勝手に音や声に変換する。絵から放たれたエネルギーを浴びる。話し声が聞こえてきた。そろそろ明け渡そう。

わかった。今一番欲しいもの、一人で1時間位ここにいたい。

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