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「病室」

手術を終え体は日々回復する。病棟の廊下を一周すると百メートル。看護師と一緒にはじめは四分の一の距離をゆっくり歩いた。装着された心電図を見ながら、少しずつ距離を伸ばす。そのうち一人で歩いてよいと許可がおり、心電図も外された。すると今度は逆に、一日に最低五周は歩くようにと指示が出る。

自分でも回復しているのがわかる。入院前は一歩足を前に出すのさえしんどかった。今は休み休みでも五周を歩き切ることができる。

毎日歩いていると仲間ができた。私とは逆方向に歩く人。年齢は一回りくらい上の小柄な女性だ。すれ違うたびに会釈を交わし、そのうち話すようになった。肺がんの治療中で、もうすぐ副作用で歩けなくなるから今のうちに歩いておくのだそうだ。

あっけらかんと笑顔で話すから私も笑顔で返す。「待ってますから」と。

それから私は外を歩くようになった。病院の敷地内なら自由に歩いていいことになり、とにかく歩いた。最初に診てくれた医師と廊下ですれ違った時「顔色が良くなったね」と言われ、回復を実感する。

廊下に出るたび、あの人はいないだろうかと探すが、別の人が歩いているばかりだ。

とうとう退院の日を迎えた。前日に手紙を書いた。退院前にナースステーションに行き手紙を託した。そしたら、会ってもいいと言ってくれて、はじめて病室を訪れた。

歩いているときとは別人のように弱々しく横たわっている姿に涙がこみ上げるのを必死でこらえた。

「元気になったらお返事するね」

私は何と声をかけただろうか。今となっては忘れてしまった。

「またね」と互いに言い合って病室の戸を閉める。

何ヶ月か経って手紙をもらった。今は自宅に帰っているそうだ。でも、がんとの闘いはまだまだ続く。手術して良くなった私とは違う。

なんて書けばいい?すっかり元気になりました。行きたかったコンサートにも行けました。子どもと鎌倉に出かけました。建長寺の半僧坊に登れました。もうすぐ仕事に復帰します。

書きかけて破り捨てる。そのときの私はあの人にかける言葉を持たなかった。連絡はそれきり途絶えてしまった。私のせいだ。

今なら正直に言葉が見つかりませんと伝えるのに。あの人の姿は、ベッドに横たわったあの時のまま、ずっと更新されないで私の中に残っている。

8/3/2024, 1:02:01 AM