「目が覚めると」
二つ並んだベッドがきしんで、あなたがこっちに来る。その気配で目が覚めるが、まだ寝たふりをする。後ろからふわっと抱きしめらるまで。
「んー」
今起きたふりをして腕の中に入る。毎朝のルーティン。なぜか先に目を覚ますあなた。今度こそは、と思うのにいつも先を越されてしまう。
窓の外の小鳥のさえずり。カーテンの隙間から差し込む朝日。もう少しだけこのままでもいい?よくないか…
田舎の朝は早い。6時前にもう畑仕事に行く人の車の音がする。それを合図に今度こそ二人は起きる。カーテンを開けて思いっきり光を浴びる。窓を開けると小鳥がさっと逃げる。
「今日はどこに行くの?」
「酒井さん、野崎さん、村田さんの病院の付き添い」
「一度に三人も。大変じゃない?」
「大丈夫。行き先は同じだから。整形外科のリハビリ」
「頑張って」
「そっちも」
目が覚めるとあなたがいる。毎日更新されるこの幸せを誰かに感謝せずにはいられない。まずはあなたにありがとう。お日さまありがとう。私たちを受け入れてくれたこの村の人たちにありがとう。
「私の当たり前」
今日はついてない。朝は転んで電車に乗り遅れた。遅刻はしなかったが、時間ぎりぎりでいつものコーヒーを買えなかった。仕事中もミスをしてしまい、お昼に入った店で、頼みたかったランチが目の前で売り切れた。
午後は何事もなく仕事を終えた。推しのドラマはなく早く帰らねばならないこともない。そうなると、いつものあの店に行く。課長いるかな。のれんをくぐるといつもの席にいた。
「お疲れさまです」
「お疲れ」
生ビールで乾杯する。課長とは変な告白まがいの出来事があったが、それもエイプリルフールのせいにして何もなかったように一緒に飲んでいる。約束しているわけではなく、いると一緒に飲む。
いないときもある。元々一人で飲んでいたのだ。それが当たり前だった。
当初は5回に1回くらいの割合だった。会わないほうが当たり前。それが3回に1回、2回に1回、3回に2回くらいになると、いるのが当たり前になってきた。いないとがっかりする。
課長はよく愚痴をこぼす。でもそれを引きずらないから聞いていても苦にはならない。ここで愚痴をこぼすのが課長の当たり前になっていたらいいな。
「今日はついてなかった」
と今日は私が愚痴をこぼす。
お互い慰めたりしない。ただ聞くだけ。こんな当たり前の日々が愛おしい。
「街の明かり」
夕暮れ時に飛び立った飛行機はすっかり夜になって到着する。1時間半の飛行時間は慣れてくると短く感じる。
空港に近づくと小さく見えていた街の明かりが次第に鮮明になる。光の連なりに見えていた道路は車が一台一台識別できるまでになる。黒々としたところは田んぼか里山だろう。ポツンポツンと建物が見える。所々まとまった光は住宅街だろう。
すっかり慣れた光景だが、いつも思う。人間とは光を発する生き物なのだと。ホタルなどの例外もいるが、人間とは根本的に違う。人の体が発光するのではないからだ。人は火を手に入れてから決定的に他の生き物と違う道を歩いてきた。
その恩恵と災厄で人間を引き裂く。そういう歴史しか残っていない。恩恵だけに留めておけなかったのか。
明かりの下には必ず人の営みがある。穏やかで幸せな営みであってほしい。
「七夕」
「織姫と彦星みたいだったよね」
「そう思っていたのは君だけだよ」
七夕の夜、降り続く雨の音を聞きながら、君の横顔を見つめる。本当にそう思ってたの。なんで黙ったまま東京に来てしまったのか、後悔ばかりだった。知り合う男の子はたくさんいたけど、違うんだよ。ドキドキもそれと裏腹の安心も、君とは違ったんだ。
「どうしたの?」
「何でもない」
「何でもなくないよね?」
そういうとこ。
付き合い始めてわかったことがある。些細なことでも気づいて言葉にしてくれる。
「何でわかるの?」
「何でかな。ただそう感じただけ」
織姫と彦星は相思相愛。あの頃は片思いだった。二人ともそうだったなんて笑っちゃうよね。だから、決めた。もう言いたいことは全部言う。それで傷つけちゃったら、ちゃんと責任持つよ。
言えなくてつらいのと、言ってつらいのだったら、言う方を選ぶ。手を伸ばして君の手をつかんだ。「ん?」て顔をしながら握り返す君が好きだよ。
「友だちの思い出」
びっくりした。いつもは逃げるばかりなのに急にすり寄ってくるから。寒くて雨に濡れていて震えていた。思わず抱き上げた。服が濡れるのなんてどうでもいい。この子は今、私を求めてる。
何にもできないよ?家に連れて帰っても捨てて来いと言われるだけだ。どこに行けばいい?浮かんだのはいつも行く駄菓子屋。店先で雨宿りさせてもらった。
「あら、由紀ちゃん。今帰り?」
「雨宿りさせてください」
「どうぞ。その子は?」
「急にすり寄ってきて、どうしていいのかをわからなくて」
おばさんはタオルを出してくれた。体を拭いてあげると「にゃー」と声を出した。牛乳を出してくれた。びちゃびちゃと音を立てて飲んでいる。かわいいなぁ。
「ここにいていいよ」
はっと顔を上げた。
「お母さんはだめっていうよね。いいよ。うちには他にも猫いるから」
「ありがとう!」
その日から学校帰りに駄菓子屋に寄るのが日課になった。おばさんがチャイと名付けたその子は、店の片隅に置かれた座布団の上でおとなしくしているが、私が行くとそばに来る。話しかけると「にゃー」と答えてくれる。
誰にも言えないこともこの子には言えた。私のいろいろを聞いてくれた。高校を卒業する頃にはもうおばあちゃんになってた。私が行っても顔を上げて小さく「にゃー」と言うだけだ。
お正月に帰省した時、駄菓子屋にはおばさんしかいなかった。猫は最期の姿を見せないそうだ。
あれからもう何年も経った。私のいろいろを聞いてくれた友だち。ある日、偶然入った喫茶店でメニューにチャイがあった。運ばれてきたカップの中を見てはじめて、名前の由来がわかった。チャイの毛と同じ色。
その日あったことを話しかける。「にゃー」と答えてくれたような。気のせいかな。でも元気出た。