「星空」
夕飯を済ませ外に出た。海岸線を二人で歩く。昼間の暑さはおさまり、黒々とした波が寄せる。
まだ迷っている。街の家を処分してここに住んでしまおうと思う自分と、彼の近くを離れたくない自分と。病院で技師をしている彼は病院さえあればどこでも仕事はできるよと言うけれど、この近くに彼に向いている病院はない。車で1時間のところに総合病院はあるが、今のところと比べると設備はよくない。
「何考えてる?」
「何も」
「うそ。どうしようもないこと考えてた」
「わかる?」
「わかるさ」
なぜわかってしまうのだろう。いつもそうだ。そんなにわかりやすい人間なのだろうな?
「もう10年も見てきたんだよ。それくらいわかる。君はここにいたいんでしょ。ここで野菜を作って、海を見て静かに暮らしたい」
「でも、離れるのは嫌」
「離れないさ。俺がこっちに来る」
「でも仕事は?」
「隣の市に新しい病院を作る計画があるんだ。今の病院を統合する形になるんだ。そこに行く」
「今の病院は?」
「病院さえあればどこでもいい。まあ完成は再来年なんだけど。それまで待てる?」
「待つよ。それまでは週末だけ来るようにする」
「うん。見て」
彼が指す方を見ると天の川が見える。
「この空を見て暮らせるの楽しみだな」
「ありがとう」
将来の約束がある。それだけで希望が持てる。お母さん、あなたが残してくれた家を大切に守るね。星空に誓う。
「神様だけが知っている」
暗い道を街灯が点々と照らしている。この辺はほとんどがマンションだ。家族用が多く俺のような単身者は少ない。二人で暮らす予定だった部屋に一人で帰る。
まだ荷物の整理も終わっていない。彼女が去ったという事実を突きつけられているようで怖い。
一緒に内見して二人ともすぐに気に入った。駅から近くて買い物も便利、少し都心から離れているだけで、それだって30分伸びるだけだ。
家族が増えることを予定して大きめのテーブルを買った。新しい暮らしを楽しみにしてたのは俺だけだったんだな。
一足先に自分の荷物を運び入れ彼女を待っている時だった。
「あの部屋には行かない」
嘘だ。君だって気に入ってたじゃないか、どうして今さら。
「違う。あの部屋は関係ない。もう別れることにしたから」
一方的に切られた電話。翌日彼女の部屋を訪れるとすでに引っ越した後だった。
何がいけなかったんだよ。ベランダに出てビールを流し込む。どう考えても理由がわからない。誰でもいいから教えてくれよ。
空を見上げる。月が出てきた。そこから何が見える?彼女はどこにいる?神さまならわかるのか?
「この道の先に」
一枚の絵の前で立ち止まった。緑の中にすーっと伸びる一本の道。ゆるやかな傾斜で上っている。奥の方で右にカーブしており、その先は見えない。
迷っていた。どこにも行けない。どこに進むべきかわからず立ちすくんでいた。5年付き合っていた彼は故郷に帰った。一緒には行けないと別れた。なぜ?反対されたから?仕事があるから?
田舎からは結婚しろとうるさく言われている。青森に行くと言ったら反対したくせに。いや、別れたのは自分の意志だ。何者でもない自分が嫌だ。私には縁のないオフィス街を歩く。もっと勉強すればこんなところで働けたのかな。
チェーン店のドラッグストアでレジを打ち品物を並べる。ただそれだけの毎日。東京にいる意味なんてない。彼はもういない。じゃあなぜここにいるの?
一本の道が目の前にある。これから進む道だ。あのカーブの向こうには何がある?あそこまで行ってみようか。あそこに行くなら前に進まなきゃ。でも、どうやって?足がすくむ。
「いいわね、この絵」
振り向くと杖をついたおばあさんが一人で立っている。
「もう思うように足が動かないんだけどね、この絵を見ると前に進みたくなるの」
晴れ晴れとした顔をしている。私の顔はこの人にどう映っているのだろう。
「気になるわよね。この道の先に何があるのか」
黙ったままの私の背中をそっと押す。
「じゃあね」
おばあさんはゆっくりと次の絵に進む。背中が温かい。あの道の先を見たい。今はそれだけ。胸に手を当て、もう一度絵に向かい合う。何があるかわからないから行きたい。
「日差し」
強烈な日差しが容赦なく降り注ぐ。早朝の涼しい時間に畑仕事を済ませた。お昼はそうめんにしようかな。
気温がぐんぐん上がるのがわかる。彼は大丈夫かなと少し心配になる。最近、便利屋を始めた。まだまともに仕事になってはいないが、お年寄りだけの家を訪ねては用がないか聞いて回っている。
車の音が聞こえてきた。
「おかえりなさい」
「あら、どうしたの?」
「初仕事のお礼さ」
袋に入っていたのはたっぷりインゲンとトマト。
「君塚さんに敷地の草刈りを頼まれたよ。旦那さんが入院してしまったそうなんだ」
「あら、それは心配ね」
「何かあればいつでも行くからと伝えておいたよ」
「ありがとう」
まだ二週間ほどしか経っていないけれど、日焼けして少しだけたくましくなった。草刈り機はまだ慣れていない。それでも懸命に働く姿にキュンとする。抱きつこうとしたら、汗かいてるからと逃げられた。
「シャワー浴びてくるね」
さあ、いただいたインゲンを天ぷらにしよう。君塚さんのご主人が元気になりますようにとお天道さまにお願いして家に入った。シャワーの音を聞きながらインゲンを洗う。
一人でも平気と思っていたけど、二人だとこんなに満ち足りるんだね。来てくれて本当にありがとう。
「窓越しに見えるのは」
少し似ている。子どもの頃よく見た景色に。海に突き出だ灯台で夕陽が沈むのをおばあちゃんと一緒に見た。一日として同じ景色はない。
おばあちゃんは何でもできる。畑仕事をしてごつごつとした手でおはぎを作る。ホットケーキもだ。漬物、梅干し、らっきょう、ヤマモモのシロップ、干し芋などなど。
布団まで縫っていた。私が大きくなって長さが足りなくなると、使わない布団をほどいて綿を入れ縫い直す。
それらの何一つ受け継いでいないことを情けないと思いながら、今日もパソコンに向かう。失ったものと得たものを比べると、きっと失ったものの方が多いし大切なことだった。
後の世代の人たちは失ったと感じることすらなくなるだろう。そういうものがあったことを知ることはあっても、決して失いはしない。元々持っていないのだから。
それでも、決して失わないものがある。この夕暮れ時の時間だ。年に数回泊まりに来るこの民宿の窓からは、沈む夕陽を眺めることができる。それが美しいと感じることを何者も奪うことはできない。
パシャリと今日の一枚を撮った。おばあちゃんを想いながら撮った今日の一枚は、いつ撮ったものとも違う。
少し迷って彼に送る。言葉は添えず写真だけ。
「いつそこに連れて行ってくれるの?」
ここに来る時はいつも一人だ。写真を見せたのは彼をここに呼んでもいいと思ったから。それくらい大切になったのだと伝えたかった。
「次に来る時は一緒に」
窓の外に鳩が来た。羽根を広げてくつろいでいるのかな。君もあの夕陽が好きなの?