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7/1/2024, 6:05:15 AM

「赤い糸」

この歳になって、もうどうでもいいと思っていたけど、神さまはちゃんと見てくれていたのね。

私は大きな病院の清掃スタッフ。アラヒィフと言われる歳になっても独身。プロポーズされたことは何度かあったけど、どの人も決め手に欠けて、この人と結婚したいと思う人には振られ、結局一人のまま。

長くアパレル業界で働いてきたけれど、歳を取っても続けられる仕事がしたくて40代で転職した。ハイヒールを履いて笑顔で接客する毎日から、黙々と掃除する毎日への変化は戸惑うことばかりだった。でも10年以上続けてそれなりにやりがいも感じている。どこに行っても自分の力を出し切れるようにするだけのことだ。

私の担当は病棟全般。病室を中心に回る。ある日、その個室を掃除しようと「失礼します」と声をかけ部屋に入る。患者はいなかった。シャワーもトイレも完備の個室だ。床にモップをかけていると入院患者の名前が目に入った。ドクンと胸が大きくはねた。珍しい名だからすぐにわかった。

どんな病気?

同い年で、ケンカばかりしていた。専門学校に通っていたころバイト先で知り合った。彼は大学生でかっこよくてもてた。どうして付き合うようになったのか今も謎だ。

ひと通り掃除を終え部屋を出ると、ちょうど彼は帰ってきた。気づかれないようにうつむいてすれ違った。

「奈美?」

うそ、気づかれた。

「違います」 

「違わないよ。その声はやっぱり奈美だ」

手をつかまれ部屋に引き入れられた。三十年ぶり?それなりに歳は取ったけど彼はあまり変わらない。

「会いたかった」

今だけ、少しだけ夢を見させて。これって、赤い糸の仕業?

6/30/2024, 7:52:45 AM

「入道雲」

真っ青な空に吸い込まれそうになる。もう何時間こうしているだろうか。大きな窓に面してロッキングチェアを置いて、ひざに本をおいたまま読んだりまどろんだり、贅沢な時間を過ごしているわけだが、待ち人来たらずである。

諦めて立ち上がりキッチンに行く。二人分用意すべきだろうか。冷蔵庫からミネラルウォーターを出してグラスに注ぐ。乾いた喉を冷たい水が落ちる。残り一日となった夏休みの午後が静かに過ぎる。

白い雲がもくもくと伸びていく。電源を切っていたスマホを立ち上げた。この午後を一枚残しておこう。おや、メッセージが入っていた。そうか、連絡くれたんだね。気づかなくてごめん。

「16時には着くよ」

時計を見ると15:50だ。よし、ご飯を作ろう。庭に面した窓から外に出た。トマト、なす、とうもろこし、水菜、きゅうり、オクラを収穫し井戸の水で洗う。バシャバシャと音を立てる水が涼しさを呼ぶ。

車が入ってくる音がする。この音は彼の車だ。急いで玄関に回る。彼が運転席から降りるや抱きついた。だって、待ちくたびれたもの。

「待ってたよ」

「俺も」

彼の肩越しに入道雲が見える。

6/28/2024, 11:43:57 AM

「夏」

季節がめぐるたびに忘れようと思うのに記憶は不可解。忘れたいことは忘れられないのに、覚えておきたいことはするするとこぼれ落ちる。

昔の街道沿いを歩く。古い記憶をたどってあの場所を探す。道祖神、月待塔、百庚申、道標。似ているものはあるのに、決定的に何かが足りない。

もう忘れてしまいたい。幾代か前の前世の、夜盗に身ぐるみ剥がされ斬殺された記憶。石のそばだったのだ。葬ってくれた人はいただろうか。ぷつりと途切れた記憶の糸を手繰り寄せても、それ以上は思い出せない。そこで命が尽きたのだから。

月のない夜だった。星が降ってくるようだった。
「南無阿弥陀仏」
と言えただろうか。言えなかったなら今の私が言ってやる。どこだ?その場所は。

探しても探しても見つからない。なぜその記憶だけが残っているのかもわからない。幸せだった前世もあっただろうに。

足りないと思っていたことがわかった。闇だ。夜でなければ見つかるわけがない。でもそれは不可能だ。その記憶のせいで夜が怖い。

「夏は夜」と清少納言は残した。夏の夜が美しいと思えるのは幸せだ。そう感じた夏の夜の記憶は残っていない。

そして今日も昼間の街道を歩く。石に出会うたびに「南無阿弥陀仏」と唱える。もう遅いか。

6/28/2024, 1:21:47 AM

「ここではないどこか」

「行ってきます」
誰もいない部屋に言ってドアを閉める。父の葬儀が終わって、ようやく仕事に戻るはずだったが、今日は辞表を出すために会社に向かう。気持ちが変わったのは父の祖母の家を相続したことだった。

いつも、ここではないどこかを探していた。生まれ育った家も、独立して住んだこれまでの家も、どこか違うと感じていた。ここじゃない。何度も引っ越しをしてここだ、と言えるところを探してきた。そんなものは、はなからないのかもしれない。そう諦めかけていた。

父のことは覚悟していた。離れて暮らしてはいるが、電話でよく話した。あるとき急に黙った父が沈黙の後「ごめん」と言う。一緒に病院へ行ってくれと。結果を聞くのが怖いと。

末期のがんだと告げられた。父は怖いと言った割にはあっけらかんとして、何なら少し晴れやかにさえ見えた。

残された時間が明確になると父は精力的に動き出す。資産の整理をし、生命保険以外はすべて現金に変えた。会いたい人に会い、食べたいものを食べ、今日生きていることに感謝していた。

最後に連れて行ってほしいところがあると告げられたのは、その存在だけ知っていた父の祖母の家だった。山奥の不便なところで過疎化が進み、集落の半分以上が空き家になっていた。

「ここを直して老後を過ごすつもりだったんだがな」
長年人が住んでいない家は雑草と生い茂った木々に囲まれ、廃墟にしか見えなかった。だが父には幼少期に訪れた思い出の家。大好きな祖母と過ごした場所だったのだ。

南京錠を開け中に入る。無数のクモの巣が張り巡らされ容易には進めない。やっとのことで縁側にたどり着き雨戸を開ける。暗かった室内にさぁーっと光が差し込んでくる。もうもうとしたほこりの中に大きな柱時計が見えた。その時、頭の中でボーンボーンと時計の音が鳴り響く。

「ここに住む」
無意識にそう言った。
「私の保険金を使いなさい」
父は微笑んでいた。
「写真を飾ってほしい。お前がここに住むのを見守れるからな」

仕事が嫌になったわけでもないが、あそこに住むなら通うのは不可能だから辞める。父が住んでいた家を貸すことにして生活費は確保した。自分のマンションも売るつもりだ。ようやく出会った場所を大切にしよう。ここではないどこかを探すのはもう終わりだ。

6/26/2024, 12:10:47 PM

「君と最後に会った日」


好きだと自覚したのは卒業式の日だった。遅すぎる。でも勇気を出して第2ボタンをもらった。小さな巾着に入れていつも持ち歩いている。馬鹿みたい?笑わば笑え。結婚もしたけどうまくいかなかった。無意識に比べてしまったのだろう。相手にしてみれば面白くないよね。

彼はがんばる人。手を抜くことなんてなかった。大変なことをちっとも大変そうにしないでやり遂げる人。でもね、知ってるよ。文化祭の実行委員長をしていた時、君の提案が猛反対されて、いろんなところに頭を下げて説得して回っていた。

裏で疲れ切って頭を抱えていた時、話しかければよかった。でもね、一度も話したことないのに変だって思われるのが怖かった。自販機でジュース買ってあげれば済むことなのにね。私が政治家になったのは、そんな後悔があったからなんだ。黙ったままでいることで後悔したくないから。

「ありがとう。これで東京でも頑張れる」

君と最後に会った日、そう言った。本当に最後なのかな?もう結婚した?どんな仕事をしているの?まだ地元にいる?言えない言葉ばかりが増えていく。

そんな時、母校から講演会の依頼が来た。文化祭で学生時代の話をしてほしいと、文化祭実行委員長からの依頼。君じゃないけど、君のために受ける。

あの渡り廊下は今もあるかな?

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