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6/25/2024, 11:48:50 AM

「繊細な花」

雨のなかを一人歩く。傘は風に飛ばされてしまった。ちょうどいい。頭を冷やせ。もう彼女は二度と俺の前に現れない。どこかホッとしている自分に腹が立つ。路傍の雑草は温室で育った繊細な花には似合わない。

もうアパートを出よう。もっと不便なところに。彼女が見つけられないところに。鍵を差し込み回すとギシッと音を立てるドアを開け、そのまま風呂場に直行しシャワーを浴びる。

冷蔵庫からビールを取り出し半分ほど飲む。髪はまだ濡れたまま、部屋干ししていた半袖Tシャツと短パンをはく。パソコンを開くと、今日一日一行も進んでいない書きかけの小説が表示された。

これはこのままでいい。新しいファイルを開く。歩道橋の上で我々を見ていた女にご登場いただこうじゃないか。失恋したのは彼女だ。俺じゃない。



今夜帰宅するといるはずの恋人の姿がない。半狂乱になって探し回るがどこにもいない。メッセージは既読にならない。電話も出ない。雨に濡れるのもかまわず探し続けた。

見上げる歩道橋の上に一つの傘に入る二人の人影。見覚えのある傘だ。この角度から男は見えない。女のだけが見える。上品な花模様のワンピースの下の細い腰、長い髪、何もかも正反対だった。例えるなら繊細な花。そして影は一つになる。

いいよ、くれてやる。私は雑草。踏まれても平気。たくましく生きる。アパートに帰ってお風呂に入る。たっぷりのお湯につかって冷えた体を温める。本当は彼が温めてくれるはずだった。こみ上げてくるものが汗か涙かわからなくなる。

少しのぼせた体にビールを注ぎ込む。お風呂に入っている間に彼からのメッセージが入っている。

「コンビニに行ってた。今から帰る」
はっ?見られてないとでも?

ガチャ。鍵を回す音。
「ただいま。ごめんね。明日の朝ご飯はフレンチトーストだよ。材料買ってきた」

ポタポタと雫をたらすのはビニール傘だ。
「いつもの傘は?」
「友だちに貸したままになってる」
彼の胸に飛び込んだ。よかった。さっきのは違ったんだ。


何で帰ってくるんだ?腹立たしくなって乱暴にパソコンを閉じた。でもよかった。繊細な花には幸せが似合う。

6/24/2024, 11:12:09 AM

「1年後」

「またね」
そう言って新幹線のホームで見送った。あれから頑張って、とうとう就職だ。就活で東京に行った時、ちゃんとお付き合いを始めた。高校の卒業式、もっと勇気を出せばよかった。東京と地元では無理だって、最初からあきらめてた。

そうだよ、高校の時だってチャンスはあったんだ。生物部で学校内の植物図鑑を作ろうと放課後は白衣を着て写真を撮っていた。人気のない校舎の裏で君は踊っていた。その姿があまりにきれいで思わずシャッターを切った。びっくりした君が近づいて来た時、怒られると思ったんだ。でも君は怒らなかった。

「見せて」と言われ一緒にカメラのモニターをのぞき込んだ。あまりに近くて心臓の音が聞こえやしないかとびくびくしていたよ。君の写真はきれいだった。のびやかに体を反らし手を伸ばして太陽をつかもうとしているみたいだ。

「文化祭で踊るの」
「そうなの?僕は文化祭でこの学校の植物図鑑を展示するんだ」

植物の写真を見せた。古い学校だから木がたくさんある。それ以外に雑草も花壇の花も。

「面白そう。見に行くね!そうだ、そのカメラ動画も撮れるの?」
「うん、撮れるよ」
「じゃあ、お願い。踊るところ撮ってもらえる?どんなふうに見えるか確認したいの。明日、みんなで合わせるんだけど、その時に。いい?」

そんなことがあっていいのか?女子とこんなに長く話すのは初めてだ。しかも明日は他の人も一緒だ。文化祭のステージでダンスを披露するような女子とはそもそも縁が無い。

翌日、すぐに見れるようにパソコンも用意して約束の時間に体育館に行った。ダンスは5人のグループで、聞いたこともない曲だけどみんなそろっていて素晴らしかった。データを送ってほしいと言われ、彼女のアドレスを教えてもらった。

文化祭まで何度か撮った。そのたびにうまくなる。僕まで参加できたみたいでうれしかった。

それから何度も好きって伝えるチャンスはあったんだ。でも勇気がなかった。東京の大学に行くと聞いてからは完全にあきらめてた。

「誕生日おめでとう」

東京駅のホームまで迎えに来てくれた君を抱きしめた。誰に見られたってかまうもんか。もう君は僕の恋人。あれからちょうど1年後だ。

6/24/2024, 12:40:23 AM

「子供の頃は」

仕事が終わって帰路に着く。愛する家族の待つ家まで電車で40分。座れなくともどうってことはない。笑顔で迎えてくれる妻と子供たちの顔を思い浮かべればあっという間だ。

こんな幸せが待っていることを子供の頃の俺に教えてあげたい。頑張っていれば見てくれる人はいるんたぞ。30分が経過し車内は少し空いてきた。内ポケットからスマホを取り出し、妻にメッセージを送る。

鍵をなくして途方に暮れていた妻に一目惚れした。こんなさえない男を選んでくれた妻には感謝しかない。そのままスマホの写真をスクロールする。最近は爽の写真が多い。ハイハイをするようになって、トイレまでついてきて大変と妻が笑いながら言う。ちっとも大変そうじゃない。むしろうれしそうだ。

幼稚園の制服姿の雫、砂場でいつまでも飽きずに遊ぶ澪、眺めているだけで笑顔になれる。最近の妻の写真がないことに気づく。そうだな、今日は妻の写真を撮ろう。

電車が着いた。降りる人の流れに乗り改札に向かう。改札を出ると駅の売店に花が売っているのが目に入った。珍しいなと思いながら、1本のガーベラを買い求めた。

子供の頃はいつも誰かの引き立て役だった。なぜか俺の周りは人気者ばかりで、ラブレター渡してと頼まれることばかりだった。そんな俺でも妻は好きと言ってくれたんだ。早く会いたくて走った。

あの角を曲がると我が家だ。門の前に爽を抱っこした妻が立っている。

「おかえりなさい。走って来たの?」
「早く会いたかったから」

今の俺は引き立て役じゃない。堂々とヒロインに花を渡すヒーローだ。

6/22/2024, 11:19:47 AM

「日常」

5時間眠ればいい方で、睡眠時間2〜3時間が私の日常。それでも、彼がいてくれた時はご飯を作ってくれて、お弁当を持たせてくれて、部屋はいつもきれいで、洗濯までしてくれる。定時で終わることの多い彼は、いつも私の帰りを待っていた。

嘘なんだ。待たれるだけなのは嫌、なんて嘘。ただいてくれるだけで良かったのに。一度だけ海に連れて行ってくれた。久しぶりの休み、一日中寝ていたいのに無理矢理起こされて、車に乗せられた。着いたら起こすから寝ててと言われ、ぐっすり眠った。目が覚めたら、海だった。

まぶしいほどの日差しを浴びて、砂浜を歩いた。海をバックに写真を撮った。サンドイッチのお弁当がおいしかった。

また行きたいな。そう思ったけど、言えなかった。仕事でミスをして落ち込んだ時も何も言えなかった。私を待ってうたた寝している彼をこれ以上縛り付けたくなかった。追い出したりしてごめん。

海に行った時の写真を印刷して飾った。彼と過ごしたただ一度の非日常。

朝起きて、会社に行って、深夜に帰宅して、また会社に行く。それが私の日常。

頭が痛い。金属バットで殴られたみたい。体がバランスをくずす。ああ、私、このまま死ぬの?もし、目を覚ますことができたら、彼と一緒の日常を取り戻したい。

大好きだよ。

6/21/2024, 12:16:31 PM

「好きな色」

第一志望の大学に受かって東京に行くことが決まった。うれしいが、複雑な気分だ。いつも図書室で勉強しているとき近くにいる一つ下の後輩が気になっていた。急に雨が降ってきた時、傘に入れてくれて、それがきっかけで付き合うようになった。

図書室で勉強して一緒に帰るだけ。合格するまではそう決めていた。けどもう我慢はしない。今日は初めてのデートだ。映画を観に行く約束をした。

シネコンが入っているショッピングモールで待ち合わせだ。少し早めに着いたのでブラブラと歩いていると、パステルオレンジの花模様の傘が目に入った。ブルーとピンク、イエローもある。東京に行く前に何かプレゼントをしたかった。傘なら二人にちょうどいい。よし、今日は好きな色を聞き出すぞ。

同じ本を読んでいたことから恋が始まる映画だった。最後は別れてしまったけど、俺たちは別れるもんかと、固く決心した。遠距離が何だ。

フードコートでお茶をした。二人で映画のことを話していると急に寂しくなった。やっとこんなふうに話せるようになったのに。それは彼女も同じなのだろう。うつむいてしまった。

それから二人で海まで歩いた。風が冷たい。映画館では迷ったけど、結局手をつなげなかった。今なら寒いのを言い訳にしてつなげる。そっと手を取った。冷たい。一瞬だけ恥ずかしそうにためらって握り返してくれた。その手をコートのポケットに入れた。

「あったかい」
由貴がポケットの中の手に力を込めた。
「私も東京の大学に行く」
思わず立ち止まって由貴の顔を見つめる。目が合った。決意に満ちた表情は凛々しくきれいだ。反対の手で頬に手を当て唇を重ねた。
「待ってる」

それから無言で身を寄せ合い沈んで行く太陽を見ていた。
「この色、好き。夕日に染まったオレンジ色の空」

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