「あなたがいたから」
途方に暮れていた。家に入ろうとしたら鍵がない。オートロックのドアの前で立ち尽くす。
「すみません」
そう言われて邪魔になっていることに気がついた。さっと避けて、もう一度バッグの中を確認する。でも、ないものはない。
「あの、どうかされましたか?」
「鍵をなくしてしまって」
「それはお困りですね。よかったら一緒に探します」
親切な人がいるものだ。でも申し訳ない。
「大丈夫ですよ。時間ありますし。いつからないですか?」
いつからだろう。バッグのなかで迷子になるので大きな猫のぬいぐるみのキーホルダーをつけている。ランチに行くときにはもうなかった。帰り道、駅を降りてスーパーで買い物したときもなかった。朝は?だめだ、思い出せない。
「何階ですか?」
「8階です」
「同じフロアですね。もしかして鍵かけ忘れたとか?行ってみましょう」
エレベーターが8階に着いた。
「ちなみに僕の部屋はここです」
「あ、ありました」
隣の部屋のドアにささったままになっている。私の部屋だ。
「お隣だったんですね。見つかってよかったです」
「ありがとうございました」
「泥棒とか入ってませんか?差し支えなければ中の様子、確認しましょうか?」
待って、そこまでこの人を信用してもいいの?でも泥棒と鉢合わせするのも怖い。
「僕のこと信用できませんか?」
その人はスーツの内ポケットから会社のIDを取り出して私に持たせた。
「これをお預けしますから。いいですか?入っても」
「お願いします」
彼の後ろから恐る恐る中に入る。明かりをつけると洗面、トイレの順に見て部屋に辿り着いた。窓には鍵をかけていたけど、念のためベランダも確認した。
「異状なしですね。よかった。それではこれで失礼します。次からは気を付けてくださいね」
パタンとドアが閉まる。やさしい人。イケメンではないし、背も高くない。会社も一流ではない。婚活パーティにいても目立たなくて絶対に自分からは選ばない。でも…
その日から彼のことが気になって。お礼に食事を届けたり、休みの日に偶然会ったりして、気がつくと好きになっていた。
ひと眠りして体温を測ると37.1℃まで下がっていた。雫のおでこに手を当てるとまだ下がっていないようだ。
リビングに行っても誰もいない。お散歩に連れて行ってくれたんだな。ありがとう。あなたがいたから、私は母親になれた。足りないことばかりだけど、あなたとなら乗り越えられるよ。
5月29日投稿 「半袖」続き
「相合傘」
きれいに洗濯をしたジャージを紙袋に入れた。近くの天満宮で買った学業成就のお守りも一緒に入れて毎日持ち歩いている。
すっかり暑くなって毎日半袖だ。もう長袖のジャージは着ることはないだろうけど、早く返さないと。そう思って一昨日も昨日も今日も図書室に来たけど、西畑先輩はいない。明日は華道部の活動があるから、今日は会いたかったな。
活動は2週間に1回だけ。自宅で教室をひらいている草月流の先生が教えに来てくださる。中学の先輩に誘われて始めたが、面白くなって2年になっても続いている。
季節の花に触れることができるのが一番の魅力だ。今日はあじさいが入っていた。中でも真っ白なあじさいがきれいだった。写真におさめてから片付ける。毎回仕方のないことだけど、かさばるのが難点だ。電車に乗る時は肩身が狭い。
運が悪く途中から雨が降っている。カバンに花に紙袋に荷物が多いのに、あいにく折りたたみ傘しかない。傘を取り出していると「藤野さん」と呼ぶ声がする。この声は…
「西畑先輩」
「よかった。会えた。図書室にいないから待ってたんだ。この前はありがとう。これ、お礼に」
先輩の手から私の手に小さな紙包が渡される。
「本当にありがとね」
「あの、私からも。ジャージありがとうございました」
「駅まで行こうよ。今日は傘持ってるから一緒に入ろう」
この前は偶然だったけど、今日はちゃんと相合傘と言っていいだろうか。先輩が華道部の話を聞いてくれる。しばらく図書室にいなかったのは、3年生だけ短縮授業で終わるのが早かったからだった。よかった。避けられたわけじゃなかった。
「LINE交換しよう?」
駅について電車を待っていると先輩がスマホを出して来た。ピロンと音がして先輩が「よろしくね」とメッセージをくれた。私はお気に入りの羊のスタンプを返した。
電車が来ると先輩が花を網棚に乗せてくれた。途中から混んできて先輩の胸にくっつくような感じになってしまった。ドキドキがわかってしまうだろうか。電車が揺れるたびそっと背中に手をあてて倒れないようにしてくれる。
改札を出ると先輩は私について来る。
「先輩、家は反対じゃ…」
「家まで送る」
「でも…」
「ほら行くよ」
先輩の傘は大きくて、小降りになった雨のポツンポツンと傘に当たる音が、リズミカルに響く。もう少し止まないでね。
今日、憧れは恋になった。
「落下」
これは夢だ。多分。
薄暗い階段を降りている。待ち構えていたドアを開ける。暗い。かすかに前方に灯りが見える。そちらに向かって一歩踏み出す。が、足は空を切り、そのまま落ちて行く。
パフンとおしりから着地した。何かわからぬが柔らかなもので受け止められている。これはもしやトトロでは?上からかすかに灯りがもれる。高さは測りかねるが高いことは間違いない。
メイのようにそろそろと立ち上がってみる。ふわふわしたクッションみたいだ。柔らかすぎて歩きにくい。ネコバスはこんな感じなのだろうか。
「ようこそ」
急に声が聞こえる。どこから?上からのようでもあるし、下からのようでもある。
「時間迷路のルールを説明します、簡単です。これらの階段は上に行くと未来、下に行くと過去とつながっています。過去と未来を行き来して、うまく現在に帰るだけです。あのかすかに見える灯りが現在です」
「帰れるんですよね?」
「それはあなた次第」
「もし帰れなかったら?」
「ご安心ください。リタイヤドアを随所にご用意しております。無理だと思ったらそちらのドアから外に出られます」
「よかった」
「そこがどこかはわかりかねます。それではお楽しみください」
急に明るくなり広々とした空間が広がっている。ゴールの灯りはまるで太陽のようにあたりを照らす。ゴールはあそこだから、とりあえず上に向かえばいいよね。
階段を上る。上りきって踊り場に出ると上にあったはずの太陽が真横の位置にある。しかし水平には進めない。いったん下がってそっちの方角を目指そう。
何度も繰り返していると自分が下りているのか上っているのかわからなくなる。エッシャーのだまし絵を3次元にするとこうなるのか?
もう丸三日抜け出せない。なぜ三日経ったのがわかるかって?ご丁寧にあの声が教えるからだ。「リタイヤしてもいいんですよ」とか「制限時間はありませんからごゆっくりとか」
十日が経った。もう限界だ。疲れた。リタイヤドアが見える。ドアの向こうがどこでも、ここよりはましだ。迷わず開けた。暗い。向こうにかすかに灯りが見える。そちらに向かって一歩踏み出す。
後悔した。デジャヴ。足は空を切りどこまでも落下する。今度はもっと長い。パフン。十日前よりももっと高いところに灯りが見える。
「ようこそ」
夢よ、早く覚めてくれ。
「未来」
取り上げられた赤ちゃんがきれいに洗われ、傍らに来た。先程までの痛みが嘘のように、穏やかに満ち足りる。
眩しそうに目を開けて周りを見回している。
「はじめまして、あなたのママです」
まだちゃんとは見えていないのだろうけど、じっと顔を見られているみたい。
元気な産声を上げてこの世に誕生したこの命は、私と夫のもとに来た三人目の子だ。上の二人によく似ている。私たちのもとに来る子はみな、こんな顔なのだな。
医師も看護師もみないない。二人だけにしてくれている。泣きもせず大人しく私の腕に抱かれている。ようやく会えたね。
今のあなたには、未来しかない。どんな未来でも守るよ。
声が聞こえる。子どもたちには早起きをさせてしまったな。ほら、君たちの弟だよ。
「1年前」
「またね」の期限はいつまでかな。最後に会ったあとの君からのメッセージ。その日から更新されなくなった画面を見つめる。
うれしかったよ。突然だったけど、卒業式以来会えなかった君に会えた。東京でつらいことでもあったのかな。だから急に会いたいなんて?
新幹線のホームまで送った。手を振った君は笑っていたよね。発車した新幹線が見えなくなるまでホームにいた。「帰ってきたら、また会おうね」と送ったら、「またね」と返してくれた。
あれから1年。こちらに帰ってきていないのだろうか、それとも、もう僕なんかに用はないのだろうか。
バイトが終わりスマホを開くと「会いたい」と君からのメッセージ!それからの1週間をどう過ごしたのだろう。1週間がこれ程長く感じたのは初めてだ。
新幹線のホームに迎えに行った。その日の最終で帰ると言うから、少しでも一緒にいたくて来てしまった。そんなに忙しいのになぜ?
日帰りだから身軽だ。実家にもよらないそうだ。
新幹線でお弁当を食べたそうなので、食事はやめて喫茶店に入る。「免許取ったんだ」とうれしそうに免許証を出してきた。
「あんまり写真見ないでね」
「えっ!?今日、誕生日なの?」
「そう」
「去年会ったのも誕生日だから?」
「うん。会いたかったから」
「もしかして、そのためだけに帰ってきたの?」
「そうだよ。でもさ、1年は長かった。もっと会いたい」
さっきまで笑っていたのに急に真顔になった。
「就職はこっちでする。だから私と付き合って」
「就職先は東京に決めたんだ。だから、東京で君と付き合いたい」
「うん。よろしくね」
1年前の「またね」はちゃんと生きてた。