「好きな本」
病室で本を開く。入院生活は私にとって、ご褒美でしかない。一日中本を読んでいてもいい時間。食事の支度や洗濯や掃除や急なピンポンに振り回されることはない。黙っていてもご飯は出てくる。洗濯くらいは病院内のコインランドリーを使うが、自分が着たものだけでいいのだ。天国だ。
心筋梗塞だそうだ。急に胸が苦しくなって倒れ救急車で運ばれる、というのが一般的なイメージだろう。ところが私の場合、病院までは車で送ってもらったが、夫には「終わったら迎えに来て」と言って、受付、検査、診察と全部自分の足で動いた。もちろんしんどい感じはあったが。
「心筋梗塞か心筋炎です。造影剤の検査してみないとわかりません。心筋梗塞なら治ります。心筋炎だと助からない可能性もあります」ストレッチャーに乗せられ検査に向かう途中で、そう医師に告げられる。ん?このまま死ぬの?そっか死ぬのか…
突然死ぬかもしれないと言われるが、意外と冷静だ。もうじたばたしても仕方ない。今さらできることはないのだから。まな板の上の鯉だ。結果は心筋梗塞。命拾いをした。
で、その場はステントを入れる治療をして、入院生活が始まる。バイパス手術も行うことになって、入院生活は50日に及んだ。だから、たっぷり本を読む時間があった。
友だちが本を差し入れてくれた。自分で売店で買ったりもした。図書館でトルストイを借りてきてもらった。「戦争と平和」「復活」「アンナ・カレーニナ」と読んだ。結局、「アンナ・カレーニナ」の優勝だ。
差し入れの中の村上春樹の小説にも「アンナ・カレーニナ」が出てきた。「アンナ・カレーニナ」が登場している時点で、村上作品の最上位に位置する。ちなみに村上春樹は「1Q84」のはじめに出た2冊以降、読んでいない。もうお腹いっぱいだ。
で、「アンナ・カレーニナ」である。なんと実家にもあった!中学生の私がトルストイのなかでも「アンナ・カレーニナ」を手元に置いていた。どれだけ時間が経っても、経験を積んでも、好きなものは変わらない。
さあ、次はいつ読もうかな。
「あいまいな空」
「行ってくる」とその朝、夫は言っただろうか。「行ってらっしゃい」と送り出しただろうか。もうはっきりとは覚えていない。
それはごく普通の日常のひとコマだった。小学生の子どもに朝ご飯を食べさせて、高校生の息子に何度も声をかけ、自分も仕事に間に合うようにゴミ出しや洗濯などをこなしていた。同じような日々の繰り返し。
その日帰宅すると夫の会社から電話があったと小学生の息子が言う。ほどなくしてまたかかってきた。夫が出勤していないと、携帯もつながらないと。自分でも携帯にかけてみたがむなしく「おかけになった電話は電波の届かない…」と機械的なアナウンスが流れるのみ。
事件や事故の可能性もあると警察に問い合わせるも、そのような形跡はない。
高校生の息子が帰宅し、修学旅行で使ったスーツケースを貸してくれと、昨日貸したことがわかった。さらに、大学生の娘が昼頃起きた時、スーツケースを持って出かけたと言う。あわてて夫の机やタンスをあらためる。私服や下着が何組かなくなっている。タンスの奥に数百万円の束がある。
自分で出て行ったのだ。わかったのはそれだけ。書き置きも何もない。死ぬつもりかもしれないと思った。あのお金は自分がいなくなったときのために残してくれたのだろう。
倦怠期の夫婦なんてこんなものだろうと諦めていた。話しかけてもつまらなそうに生返事をするだけ。夫からから話しかけてくることもない。いつからか話しかけることをやめてしまった。要件があるときだけ、必要最小限の会話があるだけ。
なぜ出て行ったのか、なぜ死のうと思ったのか、「ごめん」とひとことだけ言ってふさぎ込んだ夫に、何も聞けなかった。帰ってきたのだから、それで良しとしよう。
洗濯物を外に出そうか迷う。晴れるのかもっと曇るのか、どちらとも言えないあいまいな空。
「天気悪くなったら洗濯物入れてくれる?」
「いいよ」
そうだね。はっきりさせなくてもいい。雨が降ったら入れればいいだけだ。覚悟だけを胸に秘め、あいまいな空を見上げる。
「あじさい」
「明日は県民の日だからお休み!」
学童にお迎えに行くと小学2年生の明日香が飛び込んで来た。
「ママもお休みにしたよ」
「やったあ!」
明日は拓実だけ保育園に行ってもらって明日香と二人で過ごそうと思っていた。けれど明日香は拓実も一緒がいいと言う。やさしいお姉ちゃんになった。
「あじさい見に行くのはどう?いっぱい電車に乗って行くんだよ」
「行く!」
二人色違いのTシャツと帽子、リュックにはお弁当を詰めて、いざ電車に。北鎌倉駅で降りる。薄曇りだけど歩くと暑い。でも明月院に着くと二人は階段を見上げて目を輝かせた。
「あじさい!」
「いっぱいある!」
「きれいだね」
始めて乗る江ノ電に二人は興味津々。もっと乗りたいみたいだったけど長谷で下車。不意に姿を現す大仏に大はしゃぎだ。
大仏さまの背中を見ながらお弁当を食べる。大きなおにぎりをつかんだまま、拓実が動くものを発見。よく見ると風もないのに木の枝が揺れている。揺れている枝をじっとみていると、リスだ!あそこにも!
それからソフトクリームを食べたね。鳩サブレをお土産に買って、帰りの電車で食べるお菓子も買ったのに3人とも寝てしまったね。
明日香、拓実、あの日を覚えてる?ママが一番覚えているのはね、あじさいでも、大仏でも、リスでも、ソフトクリームでもなく、二人が手をつないで歩く後ろ姿。
汗をかいて色が変わってしまったTシャツと明日香のキティちゃんのリュック、拓実はアンパンマンのリュック。
あじさいが見たかったんじゃなくてね、二人が楽しんでる姿を見たかったの。
「好き嫌い」
今日も疲れ切って家に帰る。もう愛想笑いをする元気もない。それでいい。
「ただいま」と疲れた声で言うと「おかえりなさい」と父の女が言う。母親ではない。再婚相手だ。
母は急性アルコール中毒で死んだ。母が酒を飲むきっかけが、この女だ。責めるなら父を責めるべきだろうか?浮気者の父を。
3歳の弟が「お兄ちゃん」と抱きついてくる。こいつに罪はないから弟としてちゃんとかわいがってやる。愛想笑いではなく本当の笑顔で抱きしめてやる。
「風呂行ってくる」
「僕も!」
大体いつも風呂に入れてやることになる。まあそれでいい。この家族を繋ぎ止めているのは確かにこいつだ。こいつの前でだけは素直に兄でいられる。
風呂から上がるとご飯ができている。
「お父さんは何時になるかわからないから、先にいただきましょう」
その方がいい。父とは何を話せばいいかわからないから。
「あら、ピーマンまた残すの?」
「だって苦いもん」
「残すとお兄ちゃんみたいに大きくなれないわよ」
弟がこちらを見る。ピーマンをパクパク食べてやる。
「うまいぞ。食べてみろ」
泣きそうな顔でピーマンを箸でつまむ。目をつむって眉間にしわを寄せたまま口に入れる。もぐもぐ咀嚼する。すかさず褒めてやる。
「えらいな。もう少し食べてみろ」
また口に運んで咀嚼する。
「うまいだろ?」
複雑な顔でこちらを見る。
「また一緒に食おうな」
頭をなでてやるとようやく笑顔になった。
玄関のドアが開いた。女が玄関に走っていく。俺はあわてて残りのご飯をかきこんだ。
父が入ると同時に「ごちそうさま」と席を立った。愛想笑いはしたくない。
「ピーマン食べた!」
うれしそうに報告している。
「いいぞ、好き嫌いしないでたくさん食べたらお兄ちゃんみたいに大きくなれるぞ」
お前もそれを言うのか。それより、たまには俺の好きな納豆を食べさせてくれ。知ってるだろ、忘れたのか?
お前の女は納豆が嫌いなんだ。
「街」
「よう、生きてるか?」
ひょっこり現れたこの男は、かつて愛した男だ。私が飲めないのを知っているくせに一升瓶をかかえてやってきた。
白々しい。私が生きていることは日々更新しているSNSで見ているでしょう?こういう人のためにしているのだから。とりあえず、無事だけ知らせておかないと面倒だから。
それでも、ここに来た。
最寄り駅から1時間バスに揺られ、バス停を降りて歩くこと約40分。言ってくれれば車で迎えに行ったのに。そんなことを言える人なら別れてなかったかも知れない。かんじんなことを言わないのだ。この人は。言葉がほしい私と、言葉が足りない彼と、うまくいくはずがない。
かろうじて電波がつながるこの場所は、父の祖母の家。誰も引き取る人はおらず、父が亡くなるときにお前の好きにしろと残してくれた。集落には数十軒の家があるが、住んでいるのは十数軒だけだ。確かめたわけではないが、多分一番若い。
「生きてるよ」
「うん、よかった」
そう言って、いいとも言わないのに抱きしめられた。彼のまとう街の空気の匂いが鼻腔をくすぐる。懐かしいような気もするが、もういらない。
「君がいないとだめなんだ。一緒にいたい」
それ、もう少し早く言ってくれるわけにはいかなかった?もう遅いよ。街には戻らない。
「ここに来てもいい?捨ててきた。全部。残ったのは、これだけ」
一升瓶とリュック一つ。
さーっと風が吹き抜ける。
街の匂いを吹き飛ばしていく。