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6/10/2024, 10:51:10 AM

「やりたいこと」

緊急事態発生。妻と長女が高熱を出して寝込んだ。雫は幼稚園から帰ったときには様子がおかしかったそうで、昨日小児科にかかって薬をもらってきてくれた。問題は妻だ。昨日から無理してたんだろうな。もっと早く気づいてあげればよかった。

「大丈夫、寝てれば治るよ。雫は私が見てるから、あとの二人お願い」

6ヶ月の爽はベビーベッドに寝かせた。ミルクを飲んだばかりだから、しばらくは大人しくしてくれるだろう。問題は澪だ。ん?待てよ、これはチャンスじゃないか?澪と二人で遊ぶなんて、なかなかないぞ。

「澪、なにがしたい?何でもいいぞ」
「ママとおままごとする」
「ママはお熱あるからな。他のことでいいか?」
「澪とプラレールする」
「澪もお熱だ。他には?」
「爽ちゃんとお散歩する」
「そうか、お散歩行くか」

ん、なぜだ?
なぜ「パパとお散歩」と言わない?
まあ、いいか。とりあえず行こう。
爽を抱っこして澪の手を取って家を出た。少しずつ夏が近づいてくるな。曇っていてそれほど日差しはないが、空気が湿っている。

「爽ちゃん」
澪が抱っこひもから出ている爽の小さな手をつかんだ。公園の広い芝生の上で爽を下ろして座らせた。手をばたばたさせて芝生にさわっている。澪が隣に座って一緒にばたばたすると、爽が喜んできゃっきゃと笑う。

楽しそうだ。でも、澪よ、もっとわがまま言っていいんだぞ。お姉ちゃんと弟にはさまれて、いつも我慢してるんだろう?

「爽、何でもいい、やりたいことあるか?」
「パパ抱っこ」
そう、それでいい。
「おいで」
やっとパパのところに来てくれた。
ぎゅうっと抱きしめて、そのまま寝転んだ。
爽の手が髪にあたる。澪が腹の上に乗ったまま抱きついてくる。

雲が流れていく。もっと甘えていいんだからな。そっと澪の頭をなでる。

6/9/2024, 12:44:53 PM

「朝日の温もり」

カーテンの隙間から差し込む朝日が天井に細い光の帯を作る。起きるにはまだ早いな。隣で眠る彼はまだ熟睡している。

ちょっと、いたずらしたくなった。少しだけカーテンを開けて彼の顔をまじまじと見つめる。就職して以来、ずっとデスクワークで会社から出ないから、すっかり色白になった。甲子園を目指してグラウンドを走り回っていた頃の面影はない。

坊主だった髪は長く伸ばした前髪をセンター分けにしている。そっと前髪に触れると少し身じろぎした。あわてて手を引っ込めたけど起こしてはいないみたいだ。今度は鼻筋を指でなぞる。頬をつつく。唇も。

ちっとも起きないものだから、だんだん大胆になる。もう少しカーテンを開いて顔に直接朝日を浴びさせる。一瞬だけ顔をしかめたものの、まだ起きない。

首すじをこちょこちょすると、さすがに気がついた。
「いたずらっ子」
まだ眠いのか目は閉じたまま手が伸びてきた。
「あったかい」
私の手を頬にあてたまま、朝日の温もりを確かめている。そのまま目を閉じて二度寝の心地よさに身を委ねる。

「ジリリリリリ〜」
けたたましい目覚ましの音で強制的に起こされる。目を開けると彼の顔が間近にあった。
「いたずらっ子さん、おはよう」
「おはよう」

幸せは朝日の温もりが運んでくる。

6/8/2024, 11:46:15 AM

「岐路」

俺は耳を疑った。テレビに映るあの子は今も凛とした佇まいで、まっすぐに前を向いている。あの子が語っているのは俺のことじゃないか。

あの子とは中学で知り合って高校まで同じ時間を過ごした。中学ではいつも学年1位の座を争っていたが、俺が1位になれたのはたった一度だけ。同じクラスになったことはなく、挨拶くらいはしたが、ろくに話したこともない。

同じ高校に進み、そこでも接点はなかった。部活もクラスも重なることはなく、ただ通学の電車のなかで見かけるだけだ。あの子に負けたくなくて、勉強も部活も精一杯頑張った。

本当は友だちになりたかった。どんな本を読むの?好きな音楽は?いや、友だちじゃない、あの子の特別になりたかったんだ。

一度だけあの子と話した。高校の卒業式。あの子は東京の大学に行く。俺は地元の大学だ。もう会うこともない。あの子は制服の第2ボタンがほしいと言った。俺のボタンを?

「ありがとう。これで東京でも頑張れる」
ボタンを握りしめ、笑顔であの子は手を振った。それ以来。会っていない。

卒業して二十年あまり、時々思い出す。苦しいとき、あの子はどうする?と考える。あの子は全力で頑張るだろう。そう思うと力が湧いてきた。

「岐路に立った時、いつも思い浮かべるんです。彼ならどうするかなって。きっと彼は困難な方を選びます。そして努力を惜しまない。このボタンは高校の卒業式のときにもららいました。迷ったときはこれを握りしめます。初恋でした」

若き政治家として鮮烈にデビューしたあの子には、もう俺の手は届かない。その容姿から政治以外の興味本位の、これは失礼じゃないかという質問にも真面目に答える。何も変わっちゃいない。

教師になって母校に赴任した。あの日ボタンを渡した渡り廊下は今もそのままだ。俺だって同じだ。岐路に立ったとき浮かぶのは、あのときの君だ。

6/8/2024, 1:13:53 AM

「世界の終わりに君と」

がやがやとうるさい居酒屋の片隅で、綾は上司である師岡課長の愚痴を聞いている。あ〜いい加減にしてほしい。今日は推しが出演するドラマの最終回なのだ。録画予約はしてあるけど、できればリアタイしたい。あと30分がリミット。

「奴は何にもわかってないのよ。もうすぐ世界が終わるのに、だよ、そんな細かいこと言わなくてもさ。終わるんだよ、何もかもなくなるの」

「課長、あの噂を信じてます?」

「噂じゃなくて本当なの。政府からも発表があったでしょ。その日は休日にすると。最後の瞬間はお好きに過ごしてくださいと」

「課長はその日、どう過ごします?」

「過ごす?終わるのに?」

「だって、何時になるかまだわからないわけですから、それまで何時間かありますよね。最後は誰と過ごします?」

「誰と?」

いいぞ、課長が考え込んでいる。そのすきにトイレに行くふりをして帰ろう。

「ちょっと、トイレに」

そう言って立ち上がった時だった。

「君と」

えっ?

「君と一緒がいい」

まさかの告白!推しばかり追いかけて現実の男は眼中になかった。待て待て、冷静になれ。リミットまであと5分。

「ごめんね。びっくりさせちゃったよね。でも本気だよ。ずっと気になってた」

課長、熱い目で見ないでください。もう時間がないんです。

急いでスマホを取り出して、「世界の終わりの日は休日に」との見出しの記事を表示した。

「これ、見てください。ニュースの日付」

「4月1日。それが?」

「まだわかりませんか?エイプリルフールです」

課長が固まった。

「え、嘘ってこと?」

「はい」

「君、知ってた?」

「もちろん。そういうわけなので、今日はこれで失礼します」

電車の中で、さっきの課長の固まった顔が浮かんで思わず笑ってしまった。馬鹿なの?と思う一方で、あんなデタラメを信じるなんてかわいいとも思う。

でもだ、今の私には推しが一番。駅を降りると軽やかに走る。推しのドラマまで10分。間に合った!

6/6/2024, 12:22:32 PM

「最悪」

何時いかなる時もベストを尽くす。それはこれからも変わらない。変わらないが、この状況をどうすればいい?

「ゆっくり楽しんでおいで」と、にこやかに妻を送り出し、しばらくは順調だった。6ヶ月の爽、3歳の澪、5歳の雫はみな機嫌よかった。澪は一人でおままごと、雫は絵本に夢中だ。爽は起きているがベビーベッドの中でにこにこしている。赤ん坊の笑顔ほど癒やされるものはないなあ。

爽の顔を見ながらうとうとしていたようだ。雫の叫び声で起こされた。澪が、雫が読んでいた絵本を取り上げ、ぽいっと放り投げた先で雫のお気に入りのプラレールに当たった。昨日、雫と妻が苦労して作り上げた労作だ。絶対に壊すなと妻に厳命されていた。

雫はショックで泣き出した。澪は悪びれることなく、今度はおままごとセットをひっくり返して大喜びする。壊すことが好きなのだ。壊すために緻密に作り上げる。すごい集中力で作り上げた後、一撃で壊す。きゃっきゃと喜ぶ澪を雫がにらむ。

ああ、癒やしは爽だけだ。が、爽の顔が変わってきた。口をすぼめ一点を見つめるこの顔は…「ブリッ」そうだよな、この顔は。

「パパうんち」
澪がトイレの前でズボンを脱ぎ始めた。
「今行く」
補助便座をセットし、一人で座るのを見守る。
「出たら言うんだ」とその場を離れ、爽のもとに。手早くオムツを替えてしまおうとベビーベッドへ。服のボタンを外しおむつのテープをはがした。おーっと、これは大量の軟便。左手で両足を持ち上げ、おしりふきで丁寧に拭き取る。

「パパ出た」
トイレから澪が呼ぶ。
「ピンポーン」とインターホンが鳴る。
「宅急便です」
はいはい、もうちょっと待ってね。新しいおむつをセットした。あとはテープを止めればいい。
「パパまだー」
「もうちょっと待ってて」
あー、爽の噴水だ。服もシーツも濡れた。
「お荷物でーす」
「雫、荷物受け取れるか?」
「うん、大丈夫」
ドアが開く。
「パパはんこは?サインでもいいって」
「パパまだ〜」

ああ、最悪だ。みんな頼むから待ってくれ。

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