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6/6/2024, 1:19:10 AM

「誰にも言えない秘密」

大きくため息をついて天を仰いだ。もうどうすることもできないのか。一点の曇りもない青空に嫉妬する。私だってそのように生きたい。堂々と真ん中を歩き、これが私ですと、笑っていたい。

平家の落人狩りなど冗談だと思っていた。千五百年以上前のことを持ち出して、今さら平家も源氏もないだろう。しかも源氏は実朝の代で終わっているはずじゃないか。

タイムマシンが実用化されてからというもの、過去に行き違法行為をする者が後を絶たない。私などそんな輩に母を特定されて殺されでもすれば生まれなかったことになる。

平資盛の落し胤が我が家の始まりだと、これは代々口伝で伝えられてきたことだ。資盛が都落ちする前に恋人の元を訪ねた際に授かった。壇ノ浦で入水した資盛さえも知らぬことだ。女は懐妊がわかると密かに元の恋人であった藤原の某に助けを求め、この下級貴族の子として生を受けた。

平家の残党狩りは凄まじかった。それはそうだろう。情で流罪にした頼朝が平家を滅ぼした。一人残さず殺さなければ安心して眠れなかったであろう。

それでも我が祖先は生き延びた。自分が育てていては資盛の子とわかるだろうと、母親は泣く泣く子と別れ、生涯会わなかったそうである。藤原の某は地方の荘園の片隅に密かに住まわせた。長じてたくましく成長したその子は某に出自を聞かされて以来、山奥にこもり乳母の一家ともに暮らしてきた。

明治維新後は隠れることなく百姓として小松を名乗りそれが現在まで続いている。全てを詳らかにするには時間が足りない。かんじんなのは今だ。もう何で小松を名乗った?藤原にしときゃよかったんだよ。山の中だから山藤とか。

すでにリストアップはされているだろう。本籍を調べたらわかることだ。何百年か前に落人の里を歩いた人が本を出した。その本に何代前か知らないが、先祖が載ってもいる。

それにしても、源氏が滅んだのは自滅だろ?今さら平家を捕まえても仕方なくない?

新しいニュースが入った。平家の残党狩りを推し進めているのは、頼朝のご落胤だそうだ。実朝だったらまた違ったんだろうけど。

私はどっちに進めばいい?どうすれば一子相伝の秘密を守れる?まだ子どももいないのに…

6/4/2024, 11:49:02 AM

「狭い部屋」

最悪だ。腹を下してトイレに入っている間に最終バスが出てしまった。一刻も早く目的地に着きたいが、命の危険は避けたい。この街に泊まるしかないようだ。

一軒だけの宿屋には商人とわずかばかりの観光客だけだ。部屋はある。狭い部屋と広い部屋どちらか選べという。狭い部屋は一人部屋だ。ならば狭い方がいい。

鍵を受け取り、案内された部屋に入る。一応トイレとシャワーはある。一人用のベッド、壁に備え付けのテーブル、椅子が一脚それがすべてだ。廊下側ではなく外に向けて小さなドアがあったが気にはならない。こんな小さなオアシスで空き部屋があるだけでありがたい。

シャワーを浴びベッドに寝転んだ。明日一番のバスに乗るために早めに寝ることにする。狭い部屋と言われたが、一人で寝るには十分だ。

うとうとしていると何やら物音がする。気配もする。泥棒か、と起き上がるとベッドの周りが羊で埋め尽くされている。パタンと外に通じるドアが閉まった。どうやらこの部屋は羊と兼用らしい。

見回すと部屋の隅にいる子羊と目が合った。手招きすると他の羊たちの背中を踏みながらベッドまで来た。ここに乗れとベッドをトントンすると素直に乗った。背中をさすってやると足を折り眠る体制になった。

そいつに抱きついて寝ることにした。それを見ていた他の子羊がベッドに乗ってきた。背中の位置に来たのでちょうどいい。夜は冷える。天然の布団だ。

狭い部屋も悪くない。

6/4/2024, 12:45:43 AM

「失恋」

彼女の部屋の窓を見上げて「さよなら」ともう一度言葉にした。さっきも彼女に言ったばかりなのに。

もう何度あの部屋で彼女を待ち続けただろう。会いたくて会いたくて、しつこく連絡したら合鍵をくれた。彼女のために部屋を整え料理を作り、ひたすら待っていた。

「待たれるだけなのは嫌」
彼女はそう言った後「さよなら」だけ残して二人で眠った部屋のドアを閉めた。少し経って、部屋から僕の荷物が運び出された。もう僕はいらなくなったんだ。

他にもあったけれど、この部屋に来ないならば必要ない。処分してもらえばいい。鍵を閉めドアポケットに入れた。

それからも僕は彼女の部屋の窓を見上げることをやめなかった。他に何もなかったから。

ある休日の午後、彼女の部屋から荷物が運び出されている。引っ越すんだ。僕の手の届かない所に行ってしまうんだ。とぼとぼとトラックの横を通り過ぎようとしたそのとき、「遺品整理」とトラックに刻まれた文字が目に入る。遺品?どういうことだ?

ちょうど彼女の部屋から出てきたスタッフがいたのでつかまえた。
「遺品整理ってなんですか?」
「あの部屋に住んでいて亡くなられた方の遺品です」
「亡くなったんですか?」
「そうみたいですよ。仕事中に急に倒れてそのまま亡くなったそうです。身よりもいなくて会社から依頼がありました」
「ちょっと、そこ、しゃべりすぎ」

亡くなった?僕が部屋を出て一か月ちょっと。その間に何があった?

「あの」
さっきスタッフをたしなめていた年配の女性が近づいてきた。
「これはあなたですか?」
二人でたった一度だけ出かけたときの写真だった。季節外れの海ではしゃいでいた。きれいなフレームに入れられていた。

「何があったか存じませんが、それは大切にされていたようですよ。この顔の部分、何度も触ったんでしょうね。指紋がたくさんついてます。よかったらお持ちになってください。全部処分することになってますから」

それだけ言うと女性は仕事に戻った。

「待たれるだけなのは嫌」
彼女の真意は別れることじゃなかった。だってこの海は、行きたくないと言った彼女を僕が無理に連れて行ったんだ。笑顔を見たかったから。

失恋したのは彼女だった。待つだけだった僕に。

6/2/2024, 1:07:19 PM

「正直」

大きなため息をついて目の前の二人を見ていた。正直に話せば許してあげると確かに言った。いや、言わなくてもわかったけどね。二人の前のダンボール箱からくうくうと声が聞こえているからね。

勘弁してよと箱を開けた。あーもう、目が合ったじゃない。真っ黒い子犬がおすわりをしてこちらを見ている。かわいい!抱き上げるとぺろっと頬を舐められた。ああ!顔の前まで抱き上げて瞳をのぞけば、丸い目が笑っているようだ。

もう無理。正直になろう。
「かわいいね。うちの子にしようか?」
二人の顔にぱあっと光がさす。この子たちもきっと一目惚れしたのだろう。ばたばたと車に乗り込みペットショップに向かう。

「そうだ、お父さんに知らせないと」
動き出す前に写真を撮って送った。
「今日から新しい家族が増えます」というメッセージとともに。

必要なものをペットショップでそろえ、店員さんに育て方を聞き、家に帰って大騒ぎしながら居場所を作った。食事はまだ小さいので普通のドッグフードではなく、小犬用のものを買った。待て待て、これからどれだけお金がかかるのだ? いや、もう決めたのだ。いざとなれば私がパートに出よう。

夜になって夫が帰ってきた。怒っているだろうか。なんの相談もせずに決めてしまった。
「ただいま」
「おかえり」
「あー、かわいい!」
「ほんと?嫌じゃない?」
「嫌なわけないよ。大歓迎」

子どもたちが両手を上げて喜んでいる。
「ありがと。大好き」
小犬のおかげで正直になれた私は、子どもたちには聞こえないように夫だけに聞こえるように言った。

6/1/2024, 12:22:31 PM

「梅雨」

あれはいつの梅雨時だったか、上京した年かその次の年か、忘れられなくなった人がいた。なぜかいつも傘を持っていない。

バイト先の喫茶店に上下そろいのスウェット姿で、決まって両手をズボンのポケットに突っ込んだまま駆け足でドアの前まで来て、ブルっと犬みたいに体を震わせて水を落とす。でもあまり意味がない。スウェットはすっかり雨をすいこんでいるから。それから、左手だけ出してドアを開ける。

入るなり「モーニング、コーヒー」とだけ言ってからテーブルに付く。お冷やとおしぼりを持っていくと、手を拭いたあと、ぼさぼさの髪と無精ひげを拭いて、おしりのポケットから新聞を取り出して読み始める。

週に3、4回は訪れるその人はサラリーマンではなさそうだ。8時に現れ、コーヒーをお替りしながら10時すぎまで、新聞を読み終えると今度はズボンの右側のポケットから文庫本を取り出し読んでいる。満足すると左のポケットから小銭を取り出して支払い、どこかへ帰っていく。ひげのせいで年齢不詳だが、小銭を差し出す手はきれいだったから、まだ若かったのだと思う。

ある日の帰り道、やはり雨が降っていた。ざあざあとしとしとの、その中間の雨。少し風が吹いていて足元が濡れる。駅前の歩道橋を昇ると真ん中に二人の人がいた。一人はあのスウェットの人だ。もう一人(髪の長い女性)がさす傘の中で珍しく濡れていない。女性が必死に手を伸ばしている。持ってあげればいいのにと思う。

立ち止まって進むべきか考えていると、突然、女の方が背伸びをしてキスをした。一瞬のことで目をそらす余裕もなかった。女性は男に傘を押し付けると駅の方に走った。男は傘を持ってただ立ち尽くしている。追いかければいいのに。

困ったな。このまま進むとあの人とすれ違わなければならない。ビニール傘じゃなければ顔を隠せるのにと思いつつ、引き返すのも不自然だから歩き始めた。そのとき、急に強い風が吹き付けた。思わず傘を握る手に力を込めた。

さっきの風であの人の傘は飛んで行ってしまった。風にあおられて少しの間さまよっていたけど、道路に落ちて車にひかれてしまった。それを見届けるとあの人は歩き始めた。すれ違うとき、涙を流しているように見えたのは、私の見間違いだろうか。

梅雨の少し風の強い雨の日にそんなことがあった。忘れられないのは、あれ以来、あの人が店に来なくなったからだ。

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