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「梅雨」

あれはいつの梅雨時だったか、上京した年かその次の年か、忘れられなくなった人がいた。なぜかいつも傘を持っていない。

バイト先の喫茶店に上下そろいのスウェット姿で、決まって両手をズボンのポケットに突っ込んだまま駆け足でドアの前まで来て、ブルっと犬みたいに体を震わせて水を落とす。でもあまり意味がない。スウェットはすっかり雨をすいこんでいるから。それから、左手だけ出してドアを開ける。

入るなり「モーニング、コーヒー」とだけ言ってからテーブルに付く。お冷やとおしぼりを持っていくと、手を拭いたあと、ぼさぼさの髪と無精ひげを拭いて、おしりのポケットから新聞を取り出して読み始める。

週に3、4回は訪れるその人はサラリーマンではなさそうだ。8時に現れ、コーヒーをお替りしながら10時すぎまで、新聞を読み終えると今度はズボンの右側のポケットから文庫本を取り出し読んでいる。満足すると左のポケットから小銭を取り出して支払い、どこかへ帰っていく。ひげのせいで年齢不詳だが、小銭を差し出す手はきれいだったから、まだ若かったのだと思う。

ある日の帰り道、やはり雨が降っていた。ざあざあとしとしとの、その中間の雨。少し風が吹いていて足元が濡れる。駅前の歩道橋を昇ると真ん中に二人の人がいた。一人はあのスウェットの人だ。もう一人(髪の長い女性)がさす傘の中で珍しく濡れていない。女性が必死に手を伸ばしている。持ってあげればいいのにと思う。

立ち止まって進むべきか考えていると、突然、女の方が背伸びをしてキスをした。一瞬のことで目をそらす余裕もなかった。女性は男に傘を押し付けると駅の方に走った。男は傘を持ってただ立ち尽くしている。追いかければいいのに。

困ったな。このまま進むとあの人とすれ違わなければならない。ビニール傘じゃなければ顔を隠せるのにと思いつつ、引き返すのも不自然だから歩き始めた。そのとき、急に強い風が吹き付けた。思わず傘を握る手に力を込めた。

さっきの風であの人の傘は飛んで行ってしまった。風にあおられて少しの間さまよっていたけど、道路に落ちて車にひかれてしまった。それを見届けるとあの人は歩き始めた。すれ違うとき、涙を流しているように見えたのは、私の見間違いだろうか。

梅雨の少し風の強い雨の日にそんなことがあった。忘れられないのは、あれ以来、あの人が店に来なくなったからだ。

6/1/2024, 12:22:31 PM