NoName

Open App

「あいまいな空」

「行ってくる」とその朝、夫は言っただろうか。「行ってらっしゃい」と送り出しただろうか。もうはっきりとは覚えていない。

それはごく普通の日常のひとコマだった。小学生の子どもに朝ご飯を食べさせて、高校生の息子に何度も声をかけ、自分も仕事に間に合うようにゴミ出しや洗濯などをこなしていた。同じような日々の繰り返し。

その日帰宅すると夫の会社から電話があったと小学生の息子が言う。ほどなくしてまたかかってきた。夫が出勤していないと、携帯もつながらないと。自分でも携帯にかけてみたがむなしく「おかけになった電話は電波の届かない…」と機械的なアナウンスが流れるのみ。

事件や事故の可能性もあると警察に問い合わせるも、そのような形跡はない。

高校生の息子が帰宅し、修学旅行で使ったスーツケースを貸してくれと、昨日貸したことがわかった。さらに、大学生の娘が昼頃起きた時、スーツケースを持って出かけたと言う。あわてて夫の机やタンスをあらためる。私服や下着が何組かなくなっている。タンスの奥に数百万円の束がある。

自分で出て行ったのだ。わかったのはそれだけ。書き置きも何もない。死ぬつもりかもしれないと思った。あのお金は自分がいなくなったときのために残してくれたのだろう。

倦怠期の夫婦なんてこんなものだろうと諦めていた。話しかけてもつまらなそうに生返事をするだけ。夫からから話しかけてくることもない。いつからか話しかけることをやめてしまった。要件があるときだけ、必要最小限の会話があるだけ。

なぜ出て行ったのか、なぜ死のうと思ったのか、「ごめん」とひとことだけ言ってふさぎ込んだ夫に、何も聞けなかった。帰ってきたのだから、それで良しとしよう。

洗濯物を外に出そうか迷う。晴れるのかもっと曇るのか、どちらとも言えないあいまいな空。

「天気悪くなったら洗濯物入れてくれる?」
「いいよ」

そうだね。はっきりさせなくてもいい。雨が降ったら入れればいいだけだ。覚悟だけを胸に秘め、あいまいな空を見上げる。

6/15/2024, 12:05:34 AM