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「繊細な花」

雨のなかを一人歩く。傘は風に飛ばされてしまった。ちょうどいい。頭を冷やせ。もう彼女は二度と俺の前に現れない。どこかホッとしている自分に腹が立つ。路傍の雑草は温室で育った繊細な花には似合わない。

もうアパートを出よう。もっと不便なところに。彼女が見つけられないところに。鍵を差し込み回すとギシッと音を立てるドアを開け、そのまま風呂場に直行しシャワーを浴びる。

冷蔵庫からビールを取り出し半分ほど飲む。髪はまだ濡れたまま、部屋干ししていた半袖Tシャツと短パンをはく。パソコンを開くと、今日一日一行も進んでいない書きかけの小説が表示された。

これはこのままでいい。新しいファイルを開く。歩道橋の上で我々を見ていた女にご登場いただこうじゃないか。失恋したのは彼女だ。俺じゃない。



今夜帰宅するといるはずの恋人の姿がない。半狂乱になって探し回るがどこにもいない。メッセージは既読にならない。電話も出ない。雨に濡れるのもかまわず探し続けた。

見上げる歩道橋の上に一つの傘に入る二人の人影。見覚えのある傘だ。この角度から男は見えない。女のだけが見える。上品な花模様のワンピースの下の細い腰、長い髪、何もかも正反対だった。例えるなら繊細な花。そして影は一つになる。

いいよ、くれてやる。私は雑草。踏まれても平気。たくましく生きる。アパートに帰ってお風呂に入る。たっぷりのお湯につかって冷えた体を温める。本当は彼が温めてくれるはずだった。こみ上げてくるものが汗か涙かわからなくなる。

少しのぼせた体にビールを注ぎ込む。お風呂に入っている間に彼からのメッセージが入っている。

「コンビニに行ってた。今から帰る」
はっ?見られてないとでも?

ガチャ。鍵を回す音。
「ただいま。ごめんね。明日の朝ご飯はフレンチトーストだよ。材料買ってきた」

ポタポタと雫をたらすのはビニール傘だ。
「いつもの傘は?」
「友だちに貸したままになってる」
彼の胸に飛び込んだ。よかった。さっきのは違ったんだ。


何で帰ってくるんだ?腹立たしくなって乱暴にパソコンを閉じた。でもよかった。繊細な花には幸せが似合う。

6/25/2024, 11:48:50 AM