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「ここではないどこか」

「行ってきます」
誰もいない部屋に言ってドアを閉める。父の葬儀が終わって、ようやく仕事に戻るはずだったが、今日は辞表を出すために会社に向かう。気持ちが変わったのは父の祖母の家を相続したことだった。

いつも、ここではないどこかを探していた。生まれ育った家も、独立して住んだこれまでの家も、どこか違うと感じていた。ここじゃない。何度も引っ越しをしてここだ、と言えるところを探してきた。そんなものは、はなからないのかもしれない。そう諦めかけていた。

父のことは覚悟していた。離れて暮らしてはいるが、電話でよく話した。あるとき急に黙った父が沈黙の後「ごめん」と言う。一緒に病院へ行ってくれと。結果を聞くのが怖いと。

末期のがんだと告げられた。父は怖いと言った割にはあっけらかんとして、何なら少し晴れやかにさえ見えた。

残された時間が明確になると父は精力的に動き出す。資産の整理をし、生命保険以外はすべて現金に変えた。会いたい人に会い、食べたいものを食べ、今日生きていることに感謝していた。

最後に連れて行ってほしいところがあると告げられたのは、その存在だけ知っていた父の祖母の家だった。山奥の不便なところで過疎化が進み、集落の半分以上が空き家になっていた。

「ここを直して老後を過ごすつもりだったんだがな」
長年人が住んでいない家は雑草と生い茂った木々に囲まれ、廃墟にしか見えなかった。だが父には幼少期に訪れた思い出の家。大好きな祖母と過ごした場所だったのだ。

南京錠を開け中に入る。無数のクモの巣が張り巡らされ容易には進めない。やっとのことで縁側にたどり着き雨戸を開ける。暗かった室内にさぁーっと光が差し込んでくる。もうもうとしたほこりの中に大きな柱時計が見えた。その時、頭の中でボーンボーンと時計の音が鳴り響く。

「ここに住む」
無意識にそう言った。
「私の保険金を使いなさい」
父は微笑んでいた。
「写真を飾ってほしい。お前がここに住むのを見守れるからな」

仕事が嫌になったわけでもないが、あそこに住むなら通うのは不可能だから辞める。父が住んでいた家を貸すことにして生活費は確保した。自分のマンションも売るつもりだ。ようやく出会った場所を大切にしよう。ここではないどこかを探すのはもう終わりだ。

6/28/2024, 1:21:47 AM