──私のこと好き?
そう問い掛ければ恋人は微笑みながら言葉をくれる。嬉しい。私も好きよ。
──私のこと大好き?
そう問い掛ければ恋人は少し照れたように頷いてくれる。嬉しい嬉しい。私も大好き。
──私のこと愛してる?
そう問い掛ければ恋人は顔を赤く染めながら耳元で囁いてくれる。嬉しい嬉しい嬉しい。私も愛してる。
──好き。大好き。愛しているの。貴方だけ、貴方しか要らないの。私の愛も悲しみも喜びも怒りも憎しみも他の全ての情も貴方に捧げます。だから、貴方も同じものを返してね?
そう問い掛ければ恋人は初めて首を横に振った。どうしてどうしてどうしてどうして。私はこんなにも貴方が好きで大好きで、貴方を愛して憎んで憐れんで、貴方に憤って貴方の貴方へ貴方と──。
だからだよ、と恋人は困ったように笑った。
だからか、と私は恋人の最後の優しさで理解した。
私の愛は私のものでしかなくて。私の愛は私を幸せにはしてくれても貴方を幸せにすることはできないのだ。
ならば、私はこの愛を抱えて去りましょう。貴方への愛と貴方との思い出を誰にも触れさせず貴方にも汚されないように。
これから貴方の記憶のひとつに成り下がるであろう私のことを、引き際だけは潔かったと、どうかそれだけは覚えていてね。
私の中の貴方が過去になることはないけれど。
/だから、一人でいたい。
同じような空に同じような雲が同じように流れてゆく。寝て起きて働いて空腹を抱えながらまた眠る。毎日同じことの繰り返しで、自分も世界もなんとつまらないのだろう。
「そんなことないわ」
自分の言葉に不思議そうに首を傾げた少女は手入れの施された綺麗な爪の指先ですいと頭上の空を指し示した。
「今日はいつもより雲が少なくて昨日よりも空が青く感じない?流れ方はなんだかゆっくりかしら」
ね、と同意を求められて空を見る。自分にはいつもと変わらない空と雲が広がっているように見えたけれど、もし少女の言うように毎日自分が見逃していたような些細な変化が積み重なっているのだとしたら。
それは、ほんの少しだけ素敵なことのように思えた。
「……そうかもしれない」
「きっとそうよ」
自分には色褪せて見えるこの世界も、この硝子球のような瞳には色鮮やかに映っているに違いない。それは羨ましくも妬ましくもあり、そして憐れでもあった。
こうして空を見上げる少女は足元で広がる現実を知らない。もし空を見上げるのに疲れてその足元を見てしまった時、空の青さに慣れた少女のこの瞳は何色に濁るのだろう。
興味はある。けれど。無垢に無邪気に笑う疎ましくも愛しい少女の笑顔に、そんな日は来なければいい、と少年は思った。
/澄んだ瞳
「どうしよう」
目の前に迫り来る避けられない危機に少女は弱々しい声でそう呟いた。いつも溌剌とした声で笑う少女の珍しい姿に少し緊張しながら少年はその手を取る。
「大丈夫だよ。ボクが一緒にいるから」
「ほんとう?」
「うん。一人にはしないよ」
少年の言葉に嬉しそうに、申し訳なさそうにくしゃりと顔を歪めた少女は縋るように手を握り返す。
すると少年と少女が微笑み合うその瞬間を見計らったかのように二人の頭上にそれは落ちた。手を繋いだままの二人の小さな身体が跳ねる。
「反省してるなら怒鳴ったりとかしないから、そんな世界の終わりみたいな顔しないでよ」
触らないようにと言い聞かされていた花瓶を割ってしまった娘とそれに寄り添う少年の頭を宥めるようにわしゃわしゃと撫でながら、母親は日頃の怒り方を少し反省したのだった。
/嵐が来ようとも
夏の長い日中を経て夜を迎えた町はまだ昼間の熱を伴ったまま。そんな熱気で溢れた石畳を歩く人々の間を縫うように下駄を鳴らしながら早足で抜ける小さな影。浅葱鼠の浴衣に柔らかな紺鼠の兵児帯を合わせたまだ小学校低学年程に見えるその少年は、舞うように人混みを通り抜けていく。
屋台沿いから少し逸れいくつかベンチが設けられた所謂休憩所の区画で呑気にたこ焼きを頬張りながらその姿を認めた少女は、思わず感嘆の声を漏らした。
「あの子凄いねぇ」
「どの子?」
「ほらあの子。今かき氷屋の前らへんでグレーっぽい浴衣に紺か黒かの帯してる」
「……そんな子いる?」
「小さいからなぁ」
ほら今お面屋さんの前にいるよ。少女はそう言葉にしようとして、こちらを見つめる狐の面と目が合った。子供に人気のアニメキャラクターや特撮ヒーローのお面が並ぶ屋台を背に、少年は先程までの流れるような動きが嘘のように静かに佇んでこちらを見つめていた。
直接目の見えないお面越しでも確証があった。今、目が合っている。
浴衣姿で屋台の白熱灯の灯りを背にそこに立つ少年はいやに幻想的で。狐の面も相まって随分と絵になっていた。
その狐の面が微かに上にずらされ現れた口元が悪戯に笑う。そっと小さな手の人差し指がそこに当てられた。
「その子まだいる?」
友人の声に意識を引き戻された少女は、少しの逡巡の後に静かに首を振った。
「……ごめん。もういないみたい」
「そっか。その子、なにが凄かったの?」
「んー…………ナイショ」
「なにそれ」
呆れる友人に謝罪を返し、ふわふわと兵児帯を揺らしながら軽やかに人混みへと消えてゆく背中を見送る。
そう、内緒。ただの野狐か御使い狐か。もしかしたら神様、はたまた別の何かかは知らないけれど。
お忍びを邪魔するのは、野暮ってものだ。
/お祭り
『今日の天気は全国的に晴れ!……ですが、一部地域では急な雨にご注意を』
人間の耳や脳とは良くできたもので。今日を洗濯日和と定めていた私は、後半の都合の悪い部分は聞こえない振りをした。一部地域でと言われる時に自分の地域が対象となった経験の少なさが原因とも言える。
結局大丈夫だったね、と律儀に天気予報のお姉さんや親の言葉を守って持って出た折りたたみ傘の小さな重みを友達と共に後悔することの方が多いのだから仕方ない。微々たる重量の追加であろうとも学生のカバンは重いのだ。
そうして庭に色とりどりのカーテンを広げ傘も持たずに家を出た私は今見事に後悔していた。
「なんで!今日に!限って!」
思わず漏れる泣き言も土砂降りの名に恥じない上空からの容赦ない打ち水に掻き消されてしまう。
無駄な抵抗と知りつつも学校から家まで果敢に走り続けた私の足は、自宅にも容赦なく雨が降り注ぐ様を見て力尽きた。とぼとぼと全身に雨を受けながら家へと入る。
庭に干された洗濯物たちも私と同じようにずぶ濡れになっていることは明白。人間如きが自然に敵う筈もなかったのだと玄関で打ち拉がれる私に、先に帰宅していたらしい兄が二階から降りてきて言った。
「洗濯物取り込んどいたよ」
/神様が舞い降りてきて、こう言った。