「本当にごめん」
良く言えばおおらか、悪く言えば呑気な彼には珍しく沈痛な面持ちでそう言葉を溢した。
一度は惚れ、そして寄り添った相手。その痛ましさも感じさせる弱りきった表情に私は小さく笑みを返す。
対面してから真顔を貫いていた私の表情が緩んだからだろう。絞首台を免れた罪人のように微かに安堵の息を吐きながら、彼は私の名前を呼んだ。そして始まりそうになった言い訳の羅列を遮るように口を開く。
「もう貴方からの謝罪も弁明も結構です。ただ、慰謝料の支払いだけをお願いします」
突きつけた額に顔を青褪めさせたかと思うと、同席する弁護士の事など忘れたのかこちらへの罵詈雑言を吐き出しはじめた草臥れた哀れな男の姿に、自分は男を見る目がないのだろうかと内心で呟いた。
/言葉はいらない、ただ・・・
「どうしてこんなことに……」
変わり果てた姿となったソレを前に彼女は手で顔を覆った。隙間から漏れ出る嘆きと共に静かに涙が頬を伝い服や机に染みをつくる。
その痛ましさに思わず顔を歪めてしまう。彼女にではなく、目の前のソレに。
「だから、分量と火力は守れと、あれほど!」
洒落た名前を冠する筈だった今は名もなき炭の塊に手を合わせる。今回こそは大丈夫だろうと彼女から目を離した俺を恨むがいい。
大雑把な彼女がいつもの豪気さで手を付けた時点で結果は決まっていたのだ。
「……次は一緒に作ろうな」
「…………うん」
/最初から決まってた
「やめるときもす……すこ……」
「すこやか?」
「すこやか!な、なる?ときも……」
微笑ましさに緩む顔を悟られないように引き締めながら、昨日見たドラマの影響で一生懸命覚えてきたという辿々しい誓いの言葉を見守る。
「えーっと…………ちかいます、か?」
暫く記憶の中を走り回ったが成果はなかったらしい。かなり省略されてしまったが恐らく一番大切な部分には辿り着いていたので、誓います、と事前の打ち合わせ通りの言葉を口にした。
すると安心したように息を吐きながら自分より一回り程小さな手が差し出される。指示されていた通りにその小さな指にシロツメクサで編んだ指輪を通せば、目の前の少女は満足気ににんまりと笑った。
「おめでとうございまーす!」
幼い花嫁はそう言ってスカートの裾を翻しながら飛び跳ねると、ポケットに入れていた白いうさぎのキーホルダーの横に付いた鈴を鳴らした。チリンチリンと軽やかな音が鳴る。セルフ祝福。斬新。
「ダンナさまもおめでとうございまーす」
こちらへ向けて鈴を鳴らしながら楽しそうに笑う少女を本当の鐘の音が祝福する時、自分は彼女とその相手とを祝福する側にいるのだろうけれど。その時の君がどうか幸福でありますように。
まだ遠い未来の少女の幸せを願いながら、隠れて作っておいた花冠をその小さな頭に乗せた。
/鐘の音
真っ白な空間の中で、私はこれが夢だと直ぐに気がついた。何故なら私と向かい合うように立っていた彼の片腕が抱き締めるように私を引き寄せ、余ったもう一方の手が指を絡めるように私の手を取ったから。
こちらを見下ろして至近距離で微笑む彼の姿に、ああ、やはり夢だと確信する。
彼と手を繋いだことはあっても指を絡めたことなど一度もないし、彼と笑い合うことはしても今のように愛しげに見つめられたことはない。
彼の行動としては見たことがある。知っている。けれど、それは全て私に向けられたものではない。
「どうかした?」
優しい声色。元々落ち着いた優しいトーンのその更に上、たった一人に向けられる特別な声。この声も私は知っているけれど、私自身は知らない。
「…………好き。ずっと好きでした」
「うん。俺も好きだよ」
ずっとずっと欲しかった。この表情が、この声が、この言葉が自分に向けられるのを夢見ていた。だからだろうか。私は夢でしか見ることができないのだ。
じわりと視界が滲み始める。驚いた様子の彼の輪郭が歪んでいく。彼への感情がこの涙と共に私の中から消えてなくなりますように。
明日は大切な姉と彼の結婚式。
目が覚めてしまう前に、この涙が嬉し涙に変わりますように。そう祈った。
/目が覚めるまでに
明日は何をしようか。少年は子供部屋の中を意味もなく歩き回りながら思案する。
流行りのゲームの裏ボスを倒しに冒険してもいいし、こっそり図書室で借りてきた好きなあの子が読んでいた本を読んでみるのもいいかもしれない。一度開いて断念したけれど一日掛ければ自分にも読めるかも。
そうだ。朝は少し寝坊したって構わないから今夜は夜更ししてもいいかもしれない。何かしたいことがある訳ではないけれど、窓に肘をついて少しずつ灯りを失いながら静かになっていく街の空気を眺めるのも乙なものだ。
ああ、明日が待ち遠しくて仕方がない。寝て起きる時間も惜しいほど。
でも、万が一。いや億が一。もし明日晴れてしまったら。明日の予定も今膨らみ続けているこの期待も全て泡のように消えてしまう。
ああ神様。どうかそんなつまらない結末にはしないでください。少年はベッドの上で手を組んで仰々しく祈りを捧げた。
だが、神とは残酷なものである。
「台風は逸れたから明日も学校よ。さっさと寝なさい」
部屋のドアから顔だけ覗かせた母の言葉に、少年は静かにベッドに崩れ落ちた。
/明日、もし晴れたら