思えば朝からツイていない日だった。
朝から母親に叱られた。内容は今となっては思い出せないような些細なことだった気がする。その勢いで弁当も持たずに家を出たので昼飯は購買の残り物のパンだったし、何故か友人には金を貸して欲しいと言われてなけなしの千円を渡して一文無し。授業ではやたらと指名され、体育は持久走でヘロヘロになるまで走らされた。
そして帰宅後。夕飯時に今朝の続きと言わんばかりに母親と言い合いをして、子供の思考で夜の闇に飛び出したのだ。
本当に勢いだけで飛び出してしまったので携帯もなければ財布もなく、勿論行く宛もない。ただ、無意識に辿り着いた近所の公園には何故か友人がいた。
「何してんの?」
「お前を待ってたんだよ」
乗れよ、と友人の相棒である自転車の荷台を指され素直に従った。拒否した所で寂れたブランコに揺られる予定しかなかったので。
俺が荷台に座ったのを確認した友人は静かにペダルに足を掛け、自転車が二人分の体重に音を立てながらゆっくりと走り出す。
「昼がパンだったからおばさんと喧嘩したんだろうなって。んで、まあ帰っても直ぐには仲直りできないだろーなと」
肯定はしなかった。否定もしなかった。
友人の背中を見つめながら、どこ行くの、とだけ問いかける。
「駅前のケーキ屋。今日サービスデーで遅くまで開いてるらしいよ。あと、はいこれ。昼間借りてた金返すわ」
サンキューな、とポケットからしわくちゃの千円札を取り出して差し出される。風に飛ばされないよう気をつけながら受け取ったそれは、昼休みに自分の手から友人に渡ったものと同じものに見えた。
「変なこと言っていい?」
「どーぞ」
「お前って未来視の能力者だったりしない?」
友人の笑い声が薄暗く道を照らす街灯を超えて夜空へと響く。近所迷惑という考えは自転車の速度に置いていかれた。
「ありがとう」
「お礼は明日の弁当の唐揚げでいいよ」
「……入ってたらな」
翌日の昼休み。昨晩ケーキ片手に謝った俺に自分も悪かったと頭を下げた母が作ってくれた弁当に入っていた唐揚げを一つ摘み上げて、友人はニヤリと笑った。
やはり、俺の友人は超能力者なのかもしれない。
そう語り終えた俺に、当の友人はぱちくりと目を瞬かせた。
「そんなことあったっけ?」
「あったよ。俺、マジでお前に予知能力あるのかと思ったもん」
「えー」
覚えてないな。そう首を傾げた友人は何か思いついたのか、あ、と唐揚げを摘み上げたあの時のように悪戯な笑みを浮かべた。
「今日飲む酒は最高な気がするなぁ」
未来視というには御粗末なお誘いに、今度は俺が夜空に響くような声を上げて笑った。
/友だちの思い出
「あれがベガでね、そっちがアルタイルで、これがデネブ!」
「すごいね、綺麗だね」
「ねー」
星座の図鑑を手に最近覚えたばかりの夏の大三角形の星の名を呼びながら、まだ小さく丸い手を懸命に伸ばす我が子の笑顔に釣られるように自分も笑った。
眼下に広がる星空がきらきらと光を反射する。黒色のカーテンならぬ黒色の絨毯に散らばる無数の星々のなんと美しいこと。残念ながらこの後に掃除機という名のブラックホールに全て飲まれていくのだけれど。
「でもね、お母さんのビーズ勝手に触っちゃ駄目って言ったよね」
「ごめんなさーい」
麗らかな平日。おやつの少し前。お昼寝で体力を回復した無邪気な我が子は今日も元気だ。
/星空
花と米が舞い鐘が歌う今日の佳き日。白に包まれた二人を囲うように人々はその手にその声にその表情に祝福を乗せる。
おめでとう、オメデトウ、御目出度う。おしあわせに、オシアワセニ、お幸せに。四方八方から聞こえる祝いの言葉を真似するように吐き捨てる。
「おめでとう。おしあわせに」
ありがとう、と微笑む君は知らない。お幸せに、と願われるまでもなく幸せそうに寄り添う二人は一生知ることもない。
ここに集まった誰一人として。想いのひとつも告げられなかった臆病者の気持ちなど、本人以外の人間は知るはずもないのだ。
/神様だけが知っている
いつもは真っ直ぐ通り過ぎる少し寂れた郵便局のある角を初めて曲がった。寄り道しないようにと口酸っぱく言い聞かせてくる大人達の声を思考の外に追いやって、小さく確実に歩みを進めながら塾の重たい教材の入ったカバンの紐をぎゅっと握りしめる。
ドキドキと胸が高鳴るのは見慣れない景色のせいかイケナイことをしている自覚があるからか。どちらも、かもしれない。
郵便局の角を曲がって直ぐに住宅地に入った道は長らく一本道だが、次に曲がり角が来たら、分かれ道が来たら、どちらに行こうか。そう考えるだけでワクワクする。
気持ちの高揚に釣られるように段々と歩調を上げながら進んだ先、漸く見えた曲がり角は残念ながら右しか選択肢がなかったけれど。それでも曲がった先に見えるだろう新たな見知らぬ景色への期待を胸に大きく足を踏み出した。僕の冒険はこれからだ!
「あら。うちに用かしら?それとも迷子?」
大きな勇気で始まった僕の小さな冒険は、突き当たりに住む斎藤さんの言葉で静かに幕を閉じた。
/この道の先に
「変な名前」
何が興味を惹いたのか、名前欄に書かれた文字を辿った彼女は露骨に嫌な声を出した。
「そう?」
「女の子の大敵じゃない」
言われ、先程記入したばかりの自身の名前を見る。ありきたりな名字の後に続く自身の名前を見て、ああ、とその端を払った。
「ひさし」
「え」
「僕の名前。『ひざし』じゃなくて『ひさし』」
「…………ごめんなさい」
偽りの濁点を失い女の子の敵から生活の助っ人に変わった僕に、いつもお世話になっております、と彼女は申し訳なさそうに深々と頭を下げた。
/日差し