窓を締め切った。エアコンは消した。戸締りも済ませた。
静寂に包まれた小さなワンルームで、私は今日も眠りにつく。
聞こえてくるのは私の吐息と、私が動いたときにだけ鳴る布の擦れる音だけだ。
私から発せられたその微かな振動は、音となって空気を伝い、私の鼓膜に帰ってくる。
寝る前の時間がこんなにも心地よいのは、この小さな部屋の全てが私だけの周波数で動いているからかもしれない。
目を閉じてじっと耳を澄ませば、部屋全体が私に揺さぶられ、その振動にまた私が揺られて、深い海の底を揺蕩うように、ゆっくりとベッドに沈んでいった。
「静寂に包まれた部屋」
私は私の名前に負け続けている。
物心ついてからずっと名前と戦ってきたけれど、100戦98敗といった具合でボロ負けだ。そのたった2回の内訳は、親と幼馴染み。自分の力で勝ったとは到底言えない。
私の名前は変わっている。いわゆるキラキラネームというやつ。口頭で自己紹介するとまず漢字を聞かれるし、書類に書けば読み方を聞かれるし、会った事もない隣の隣のクラスの人に、ああ名簿で名前見たことあると言われたこともある。そうしていつも私を置いて、名前が独り歩きしていく。私はそれを、どこか他人事のように眺めているものだ。
国語の教科書のどこかのページにこんなことが書いてあった気がする。名前は物を識別するラベルのようなものだ。椅子と名付けるから、四角い板に4本足がついているものを椅子と机に分けられるし、名前がなければその2つを分けることもできない、と。
ラベルはときにそのものより先に情報として入ってきて、偏見や先入観にもなる。例えば、女とか子供とか外国人とか老人とか、個別のものを失わせてもっと大きな集団の一部に吸収してしまうのだ。人の名前だって、個人を識別するためにつけるとはいえ、大抵は既にある名前の中から名付けるし、名前によって国籍や性別を表したりもできる。
人の個性って本来そうやってどれもありきたりなもので、掛け算で唯一無二になるのだと思う。早起きが苦手な人はゴマンといるし、あのアイドルが好きな人はゴマンといるし、この街に住んでいる人もゴマンといるけれど。早起きが苦手であのアイドルが好きでこの街に住んでいて…とかけ合わせたら私だけだ。
なのに私の名前は、名前だけで私を独特な存在にして、私の内に宿る普遍性もそれらが合わさってできる私らしさも失わせる。私の名前の個性が注目されるとき、かえって私はただその名前のラベルが付けられただけの空っぽな器になってしまうのだ。
名前に負けない個性を磨いてやろうといろいろな趣味に挑戦したりもしてみたけれど、あれこれするうちにどれも中途半端になって、結局何もない私になってしまった。
そうして何もない私にたった一つ残った個性は、私の名前だけだった。私はやっぱり、私相手ですら名前に負けてしまうのだった。
「私の名前」
桜は散り際が美しい。
私たちには弱いものを愛でる習慣がある。強いほうが美しいに決まっているのに?桜は散り際こそ美しいと言われるし、未熟な赤ちゃんが可愛いく思えるし、女らしくといえば大抵はしおらしく小さく纏まった姿を指すだろう。
でもそれって、弱いものは消えてしまいそうだから惜しく感じるだけなんじゃないの?物を捨てるとき途端に惜しくなるのと似たようなもので。
可哀想は可愛いって言うけれど、それだって可哀想な弱い存在に同情して守ってあげたくなって、守ってあげたいのはそれを愛してるからだと錯覚を起こして後づけで可愛いが生まれるんじゃないの。儚げなものを美しく感じるのも、なくなりそうで惜しいと思うから、そうやって心揺さぶられるのを魅力だと思いこんでいるんじゃない?散って春まで咲かない桜は惜しいから美しいけれど、動物の毛みたいに花びらが一年中抜けては生えてを繰り返している桜があったらきっと大して美しくない。
それとも、勇気づけられているのかな。弱いものは、そこにいるだけで弱いのはあなただけじゃないよって慰めてくれるから。散っていく桜は、いつか老いて散っていく私と同じ境遇を先に辿ってくれるから。
感情なんて案外いい加減だし、言葉があるからいけないんだよ。感情は文脈なのだと思う。
だからきっと、あの人は私じゃなくてあの子を選んだんだな。弱くて、繊細で、可愛くて、美しいあの子を。
私はいつだって強くありたくて、というより強くないと生きてこられなかった。泣き叫んでも可哀想なふりをしても誰も助けてはくれないのだと、幼い頃から身を持って知らされていたし、強くあるしか生き方を知らなかった。
けれど、あの子もあの子なりに自分の環境に適応してあの子が出来上がったのだろう。もしかしたら弱く振る舞うことでしか生きてこられなかったのかもしれない。
理屈を後づけしてただ嫉妬をしているだけの私は、どうしようもなく醜くて弱い。けれどこの私の弱さは美しくはないのでしょうか。
わからない。わからないよ。
わからないから、花占いで決めてしまおう。花びらをちぎって、美しい、美しくないって決めてもらうの。
全部散らしてしまえば、きっとあの桜みたいに美しくなれるよ。
『繊細な花』
私は「ところにより雨」という天気予報がキライだ。雨よりも雪よりも雷よりもキライ。「ところにより雨」って、語尾に知らんけどとでも続きそうな突き放した言い方。行けたら行くねと同レベルの信憑性のなさ。個人の意見を尋ねたのに一般的にはという枕詞付きで回答してくる輩が好みそうな天気。だいたい、いつも世界のどこかでは雨が降っているのだから、地球天気予報があったとすれば毎日ところにより雨だ。いっそのこと外れてもいいからこことここの地域が雨だと思いますと予報していただきたい。
そんなこんなで運悪く本日その「ところ」にぶち当たってしまった私は、楽しみにしていた文化祭を台無しにされて心底お怒りなのである。もう激おこ。ぷんぷん丸。いや激おこスティ……ック?ファイナルファンタジー……?ぷんぷんドリームだ。
予定では今頃、二組の片岡くんと模擬店を回って、そうばったり会って何かしらの奇跡で一緒に回ることになって、デートみたいな気分でベビーカステラを分け合っていたかもしれなかったのに。雨のせいで屋外の催し物は全て中止。ステージも模擬店もナシ。そして友達が居ない私の予定もナシ。
唯一屋台も展示もない三階の一番端の教室で、私は窓際最後列の席に座って頬杖をついた。三階の一年生は一クラス少ない編成のため、ここは空き教室になっている。青々と芝生が広がるだけの空っぽな校庭を眺めて、ふうとため息をつく。突っ伏してふて寝でもしてやろうかと思ったその時、突然がらりと教室の前方の扉が開いた。
「ひゃっ」
「おわっ」
こう表しても誇張気味であるくらいの地味な悲鳴が二人分上がって、私は視線を扉に向けた。
そこに居たのは、他でもない片岡くんだった。どくん、と大きく心臓が脈打って、私の体温が上がっていく。
ああ神様仏様天気予報様、ディスってしまい申し訳ありませんでした。雨よ、私のところに来てくれてありがとう。しかも、模擬店で回っている最中に声をかけるという難関ミッションの予定から打って変わって、二人しかいない教室で出くわすというむしろ話しかけない方が不自然なシチュエーション。恵みの雨とはまさにこのことだ。雨ところにより片岡くん。そしてところにより青春。
またとない幸運に感謝しながら、私はめいいっぱいの勇気を振り絞って口を開いた。
『ところにより雨』
わたしたちのいるこの世界は、どこかの星でドーナツと呼ばれているお菓子のような、円い形をしています。
世界の中心まで行くと、エーテルという半透明のカーテンがひらひら揺れていて、その向こうには真っ黒な宇宙が揺蕩っています。これと似たものを海と呼ぶ星もあるのだと学校の先生は言っていましたが、父の書斎にある図鑑では海は地面に埋まっていると書いてあったので、本当に似ているのだろうかとちょっぴり疑っています。このことは先生には秘密です。
わたしたちは放課後、ときどきこの中心部へやってきます。エーテルの隙間から星を投げ入れてあげると、宇宙との化学反応でぱっと強い光が放たれるからです。その光は空中で冷えて舞い上がり、彗と呼ばれる気体になってわたしたちの世界に降り注ぎます。彗がたっぷり満ちている間、わたしたちは彗のエネルギーを吸い込んで生きてゆくことができるのです。
星の原料となっているのは、わたしたちが流す涙です。
わたしたちは涙を零した時、涙の粒が地面に落っこちる前に大切に掬い上げ、硝子の瓶に封じ込めて集めます。いっぱいになったら銀色の蓋を閉めて工場へ持っていき、職人さんにお願いをします。職人さんたちは、涙の粒を優しく撫でるように磨き上げ、形を整えます。しばらく磨くと、涙は宝石のように輝きを増してゆき、やがて星になるのです。
わたしたちにとって涙は生きてゆくのに欠かせない大切な光です。だからわたしたちが涙を零した時は、星が溢れたよ、なんて言って笑い合います。
ほらまた、あの子の目から星が溢れたよ。
『星が溢れる』