私は「ところにより雨」という天気予報がキライだ。雨よりも雪よりも雷よりもキライ。「ところにより雨」って、語尾に知らんけどとでも続きそうな突き放した言い方。行けたら行くねと同レベルの信憑性のなさ。個人の意見を尋ねたのに一般的にはという枕詞付きで回答してくる輩が好みそうな天気。だいたい、いつも世界のどこかでは雨が降っているのだから、地球天気予報があったとすれば毎日ところにより雨だ。いっそのこと外れてもいいからこことここの地域が雨だと思いますと予報していただきたい。
そんなこんなで運悪く本日その「ところ」にぶち当たってしまった私は、楽しみにしていた文化祭を台無しにされて心底お怒りなのである。もう激おこ。ぷんぷん丸。いや激おこスティ……ック?ファイナルファンタジー……?ぷんぷんドリームだ。
予定では今頃、二組の片岡くんと模擬店を回って、そうばったり会って何かしらの奇跡で一緒に回ることになって、デートみたいな気分でベビーカステラを分け合っていたかもしれなかったのに。雨のせいで屋外の催し物は全て中止。ステージも模擬店もナシ。そして友達が居ない私の予定もナシ。
唯一屋台も展示もない三階の一番端の教室で、私は窓際最後列の席に座って頬杖をついた。三階の一年生は一クラス少ない編成のため、ここは空き教室になっている。青々と芝生が広がるだけの空っぽな校庭を眺めて、ふうとため息をつく。突っ伏してふて寝でもしてやろうかと思ったその時、突然がらりと教室の前方の扉が開いた。
「ひゃっ」
「おわっ」
こう表しても誇張気味であるくらいの地味な悲鳴が二人分上がって、私は視線を扉に向けた。
そこに居たのは、他でもない片岡くんだった。どくん、と大きく心臓が脈打って、私の体温が上がっていく。
ああ神様仏様天気予報様、ディスってしまい申し訳ありませんでした。雨よ、私のところに来てくれてありがとう。しかも、模擬店で回っている最中に声をかけるという難関ミッションの予定から打って変わって、二人しかいない教室で出くわすというむしろ話しかけない方が不自然なシチュエーション。恵みの雨とはまさにこのことだ。雨ところにより片岡くん。そしてところにより青春。
またとない幸運に感謝しながら、私はめいいっぱいの勇気を振り絞って口を開いた。
『ところにより雨』
わたしたちのいるこの世界は、どこかの星でドーナツと呼ばれているお菓子のような、円い形をしています。
世界の中心まで行くと、エーテルという半透明のカーテンがひらひら揺れていて、その向こうには真っ黒な宇宙が揺蕩っています。これと似たものを海と呼ぶ星もあるのだと学校の先生は言っていましたが、父の書斎にある図鑑では海は地面に埋まっていると書いてあったので、本当に似ているのだろうかとちょっぴり疑っています。このことは先生には秘密です。
わたしたちは放課後、ときどきこの中心部へやってきます。エーテルの隙間から星を投げ入れてあげると、宇宙との化学反応でぱっと強い光が放たれるからです。その光は空中で冷えて舞い上がり、彗と呼ばれる気体になってわたしたちの世界に降り注ぎます。彗がたっぷり満ちている間、わたしたちは彗のエネルギーを吸い込んで生きてゆくことができるのです。
星の原料となっているのは、わたしたちが流す涙です。
わたしたちは涙を零した時、涙の粒が地面に落っこちる前に大切に掬い上げ、硝子の瓶に封じ込めて集めます。いっぱいになったら銀色の蓋を閉めて工場へ持っていき、職人さんにお願いをします。職人さんたちは、涙の粒を優しく撫でるように磨き上げ、形を整えます。しばらく磨くと、涙は宝石のように輝きを増してゆき、やがて星になるのです。
わたしたちにとって涙は生きてゆくのに欠かせない大切な光です。だからわたしたちが涙を零した時は、星が溢れたよ、なんて言って笑い合います。
ほらまた、あの子の目から星が溢れたよ。
『星が溢れる』
幼い頃、私には小さな相棒がいた。
記憶もないくらいに昔、遊園地で買ってもらったうさぎのぬいぐるみ。白くてふわふわでピンクのリボンがついていて、抱っこするとくりっと愛らしい目でこちらを見上げてくれる。私がその子の手を掴むとその子も腕を上げ、ベッドに横たえてあげると静かに眠り、話しかけると黙って聞いていてくれる。その子は私の操るままに動いて、いつでも私のそばにいてくれた。
そして、私が操ってあげなければ、その子は何もできなかった。
ご飯も睡眠もお出かけも、私がその子を抱っこして連れて行き、面倒を見てあげる。私は幼いながらに、この子にとって私が世界の全てであると感じ、私が守ってあげなきゃと無意識に使命感を抱いていた。
そのうちに、私は幼稚園に入ることになった。幼稚園へはぬいぐるみを持ってきてはいけない決まりになっていて、私が泣きながら母に訴えてもそれは変えられなかった。
仕方なく家で留守番をさせて通い始めると、幼稚園は私が思っていたより楽しい場所で、新しい友達が何人もできた。家に帰ってからも幼稚園の先生に習った歌を歌ったり、友達にあげるための絵を描いたり、新しい友達を呼んで遊んだり。私の世界にいくつもの新しい人間関係が生まれて、唯一無二だったぬいぐるみはただの選択肢の一つになっていった。次第に友達と遊ぶ時間が増えて、ぬいぐるみは記憶の片隅に追いやられることとなった。
洗濯物を畳みながらテレビで「ぬい撮り」についての特集を見かけ、私は真っ先にそのぬいぐるみのことを思い出した。結婚して家を出る時何となく引っ越しの荷物に入れてしまって、新居の押し入れに収納したままになっていたような気がする。私はふと思い立ち、押し入れからぬいぐるみを取り出した。
それはあの頃と同じ姿のままで、私が成長した分だけ小さくなっていた。抱きしめたら腕の中で押しつぶされてしまいそうで、私にはもうこの子を守ることはできないと悟った。けれど私には今、他に守るべき存在がいる。
ママ、それなあに?
私がぬいぐるみを眺めていると、5歳の息子が隣へやってきて、服の裾を引っ張りながら私を見上げた。
ママの大切なものよ、と伝えると、いいなあ、と呟いて息子はそれをじいっと見つめた。生まれた時からずっとこの子を見ているから、目を見ればこの子の考えていることは大体わかる。私はしゃがみ込んで息子と目を合わせ、大事にしてくれるならあなたにあげる、とぬいぐるみを差し出した。息子は大事にする!と元気に言い放ち、ぬいぐるみを優しく抱きしめた。
今の息子にとって、このぬいぐるみは一番必要な存在だと思う。
数日前に初めておつかいをさせてみたところ、それ以来息子は幼稚園へも送り迎えなしで行けると言い出した。いわゆる親離れと呼ばれるものなのだろう。その目は決意に満ちていたけれど、少しだけ不安げで寂しそうだった。
息子もいつか、私から離れて自分一人の力で生きてゆくのだろう。世界はあなたが思っているよりずっと広くて大きくて、打ちのめされてしまうこともあるかもしれない。
だけどあなたがそれを乗り越えられるまで、そして自分の守るべき存在を見つけるまで、このぬいぐるみが、そして私の心が傍にいて見守っている。大丈夫、あなたは一人じゃない。
『ずっと隣で』
私が過ぎ去った日々を思い浮かべる時は、二段階で編集が加わっているような気がする。
まず、出来事が起きたその時に、どこか一点に注目したりどこかを見落としたり、自分なりの意味を付けたりして編集をする。次に、時間が経ってその出来事を思い出す時、記憶のうちどの点を重視するか新たな意味を加えるか、封じて無かったことにしてしまうのか、といった具合に再び編集が入る。
これは映画の撮影や、マスコミの報道や、文章を書く作業と似ている。無意識なり意識的なりに捨てるところと拾うところ、繋げ方や見せ方を決めているのだと思う。
自分の人生をそのまま文章にすれば誰でも最低一つは小説を書ける、という説をどこかで聞いたことがある。小説を書かないとしても、人生は自分で作り、自分だけが見る物語なのだろう。
日々過ぎ去っていく出来事のどれに着目しどのように切り取って解釈していくか、ここが腕の見せ所だ。長所とか短所とか、ポジティブとかネガティブとか、本当の自分が何かというのも全て解釈によるもので、同じ出来事でも違う視点から切り取れば全く違って見えてくる。意図的にあるニュアンスを持つものだけを大きく取り上げて、その他を例外的で些末なものとして切り捨てれば、本当の自分なるものも演出できる。何度も同じような解釈を繰り返せば、癖がついて性格や価値観になっていくのだと思う。
せっかく自由に編集できるなら、自分の役に立つような物語を紡いでいきたい。
『過ぎ去った日々』
お金より大事なもの。まるで星の王子さまみたいなことを言うんだね。
とまあそれはさておき、お金より大事なものは何かを考えるにあたって、共有しておかねばならない前提条件がある。それは、お金より大事なものはお金で買えないものであるということだ。お金で買えるものはお金で代替できてしまうし、むしろお金の方が多様なものと交換できる選択肢があるため上位互換になってしまう。
かといって、お金で買えないものが全てお金より大事というわけでもない。お金では買えないけれど恐らくお金より不要であろうものも数多くある。例えば苦しみとか、眠気とか、欠伸とか……今書きながら欠伸が出てしまったのでこんな例が浮かんでしまった失礼しました。
となれば、まずはお金では買えないもののうち、お金より大事と思われるものを挙げていくしかない。今ぱっと思いついたものでは、愛、夢、命あたりかな。友情や家族は広義の愛、時間や健康は広義の命と言っても差し支えないのではないだろうか。
たしかにこれらはお金では買えないし、お金より大事なものだと思われる。しかし、現代ではいずれもお金がないと手に入らなかったり失ってしまうもののような気もする。愛……は分からないけれど、夢は最低限お金がないと叶えられそうにないし、命なんてもっと分かりやすい例だ。お金があっても命がないと意味がないとはよく言うが、その逆もまた然りで、お金が無ければ命を存続させることはできない。
こうなってくると、お金より大事なものなんてないんじゃないだろうか、とテーマ自体を疑わざるを得なくなってくる。そもそも、お金は物の価値を測るための尺度であって、お金そのものものの価値を測ることは不可能なのではないか。お金と他の物事の価値を比べるというのは、例えばcmとこの消しゴムどちらが長いですかと言っているようなもので。cmを使って消しゴムの長さを測るのだから、cmと消しゴムでは土俵が違うというか……ダメだ、例示があまりにも下手すぎる。
というわけで、長々と思考を書き連ねた結果、お金で価値を測ることはできてもお金の価値を測ることはできないので、お金より大事なものというテーマ自体が破綻しているのでは?などというふざけた結論になってしまった。今後どこか他の場所でお金より大事なものは何かという議論を見かけたら、中二病患者顔負けのドヤ顔で、お金の価値を測ることなんてできないよ、とでもお答えしてみてほしい。多分嫌われます。
『お金より大事なもの』