私が過ぎ去った日々を思い浮かべる時は、二段階で編集が加わっているような気がする。
まず、出来事が起きたその時に、どこか一点に注目したりどこかを見落としたり、自分なりの意味を付けたりして編集をする。次に、時間が経ってその出来事を思い出す時、記憶のうちどの点を重視するか新たな意味を加えるか、封じて無かったことにしてしまうのか、といった具合に再び編集が入る。
これは映画の撮影や、マスコミの報道や、文章を書く作業と似ている。無意識なり意識的なりに捨てるところと拾うところ、繋げ方や見せ方を決めているのだと思う。
自分の人生をそのまま文章にすれば誰でも最低一つは小説を書ける、という説をどこかで聞いたことがある。小説を書かないとしても、人生は自分で作り、自分だけが見る物語なのだろう。
日々過ぎ去っていく出来事のどれに着目しどのように切り取って解釈していくか、ここが腕の見せ所だ。長所とか短所とか、ポジティブとかネガティブとか、本当の自分が何かというのも全て解釈によるもので、同じ出来事でも違う視点から切り取れば全く違って見えてくる。意図的にあるニュアンスを持つものだけを大きく取り上げて、その他を例外的で些末なものとして切り捨てれば、本当の自分なるものも演出できる。何度も同じような解釈を繰り返せば、癖がついて性格や価値観になっていくのだと思う。
せっかく自由に編集できるなら、自分の役に立つような物語を紡いでいきたい。
『過ぎ去った日々』
3/9/2024, 10:55:08 AM