/たった一つの希望
恋は踏みにじられて終わった。
ぐしゃぐしゃに轢かれた恋。刻まれた靴跡には私のも君のもあって、だから仕方なかったと思えるし言える。
言えるさ。私が悪い。君も悪い。
きったない終わりだったね。
私は死んだ恋を思い出す。するとその分だけ
読む本が面白くなり、
景色は美しくなった。
他人の愚痴を聞いてやれるようになった。
死んだ恋は死んだままそこにあり、
君の卑怯な映像を浮かばせ、
私のだみ声をたれ流している。
希望があるとすれば、これからも世界は
めくるめく豊かさだということ。
恋を除いて。
/欲望
身辺整理をした。
服は三日ぶん。靴も三足。かばんはリュックとトートとポシェット。
そーいうの、ミニマリストっていうんでしょ、と友だちが言った。少しばかにした感じだったので、彼女と友だちでいるのもやめることにした。すっきりした。
その調子で片づけていたら、家の中の私の場所は空いてきた。ほかの家族がそこへ何か置こうものなら、私は容赦なく押し戻した。
「空いてるじゃないか」
「空いてることが私のものよ」
空間が私の持ち物だった。
私は家族に優しくなり、他人には思いやり深くなった。でも身の回りの誰とも親しさはなくなった。ただ一人、ふた月ごとに手紙をやり取りするアイスランド人の友だちがいて、私は離れた彼女の言葉を友だちみたいに持ち歩いては読み返す。
どうしてこうなったんだっけ。
わからないものだな、と思う。
/遠くの街へ
空は続いてるよ。
というのが君の口癖で、今思えばなにかで読んだのだろうその言葉を、少しまぶしそうな目をして言うから格好よく見えてしまった。
空は続いている。
どこへ行ったって。
それは意図せぬ殺し文句となり、何人もの女の子たちが寂しいときに君の隣へ来て座っていたのを知っている。私もその一人で、言葉を言葉どおりに受け取っていたにすぎない。
たぶん君は賢かった。
木の苗を植えるみたいに、若くしてその言葉を受け取り、何度も唱えることでいつか言葉の真実が落ちてくるのを待っていたんだ。
今はわかるけど。
レースカーテンが青空を透かして揺れる。私はまだあの言葉を覚えていて、気が向くと架空の折り紙を折って飛行機をとばす。君がどこに居るか知らないので、ただ空の上のほうへ投げる。
/現実逃避
きしめんが食べたい。
深夜一時のキッチンで俺は思う。疲れて腹がすいたのに、冷蔵庫にも戸棚にも食欲をそそるほどのものはなかった。食いものがないのではなく、食いたいものがないのだった。
きしめんが食べたい。
俺はきしめんの味を思い出している。かなり昔に食べた味だ。名古屋駅の新幹線、10番11番ホーム。乗り場表示の号車番号が若いほうにホームを進んでいくと、立ち食いのきしめん屋があるのだ。
きしめん食べたい。
記憶の中、俺は古い食券機の前に立つ。メニューはさほど多くなく、食券機の上から1/3程度のボタンが機能している。俺が選ぶのはいつも決まってイカ天きしめんだ。素のきしめんなら300いくらだが少し物足りない。かき揚げは腹がふくれすぎる。エビ天を乗せると600円を越え、それは俺が駅きしめんに払う金額ではなかった。
ああ、きしめん。
店が空いていれば、カウンターに食券を出して一分足らずで丼が出る。いちどなんか二十秒ということがあった。あれが最速のきしめんだった。
香りのよいかつお出汁のつゆは丁度よくあっさりしていて、何となくいつまでも啜ってしまう。冷凍と思われる麺もつるりと好きな食感だ。イカ天は揚げおきだが、歯ごたえと油っけで満足感を与えてくれる。夢中で箸を動かす。底があらわれた丼をトンと置いたときの感覚が手と腹によみがえる。
きしめん、
ごちそうさんと言って店を出る。きしめんが腹を温かく満たしている。乗る予定の午後一時台の便まで残り七分、完璧だ。俺は自分の席がある号車の列に並ぶ。忘れずに、売店でお茶と小さな甘味を買って。
きしめん──
ふと我に返る。午前一時のキッチン。テーブルの陰には俺の知人が倒れている。口論の果てのことだった。積年のわだかまりもあった。手がすべったんだ。タイミングが悪かった。そいつは頭を打ち、血を流して動かなくなった。
きしめんだ。
あの一杯は、仕事と時間に追われる俺の癒やしだった。息継ぎのような束の間の熱い満腹感。俺はキッチンの椅子から立ち上がる。昔のように、すべきことが時のむこうから追ってくる。きっとくたくたになるだろう。けれど全て終えたら、あのきしめんを食べに行く。時が流れ、良い人間が悪人になり、きしめんの値段が上がったとしても。あのきしめんが昔のままの味ならば、俺はまだなにかを信じていられる。
大げさな話だが。俺は薄く笑って、夜明けまでにやらねばならぬ仕事にかかった。
君は今
夢を見た。
夢から覚めた。
あの頃じゃないことを思い出す。
あのころ君は親友だったし、
あのころはいつ会っても嫌なことひとつなく同じ笑顔だったし、
あのころはきょうだいみたいで、
あのころは隣に座って日がな空を見ていたし、
(本当の意味で本当に)
百年経ってもいっしょだった。
睦みあって、うんざりして、
ほとんど憎みあって、
わたしたちは雑に手を振りあい、あっちと向こうに歩み去って、
十年経った。
ベッドに横になったまま、わたしは驚いている。
君がどうだったとか今どうかとかどうでもよくて、今わたしの前に君がいない。かつてはそんなこと起こると思わなかった。
でもそれは起きて、回復も奇跡もなくって、
わたしはなんとなく平気になり、
君を思い出しても渋い紅茶くらいの味が舌にする程度で。
心配もしてない──
わたしは数分ぼんやりして、起き上がり、家族のためのご飯を作り、君のことをすっかり忘れる。
次に思い出すまで。
君が少しずつ、少しずつ色褪せた写真になることにそのたび驚き、けれど寂しくはない。今わたしが君を嫌いで、今の君がわたしを憐れんでいても。昔の二人は満ち足りて笑っている。凍りついた時間のガラスの中で。わたしには親友がいた。もうそれで、充分になっている。