物憂げな空
晴れると思っていたから、知らぬ間に白く濁った空は余計に重たく見えた。
待ち合わせはよく見かけるチェーンの喫茶店。出されたコーヒーは心持ちぬるく、バッグから取り出した文庫本には化粧ポーチがぐしゃりと食いこんで、新品のカバーの端に折れ皺がついていた。待ち人は遅れている。いっそ来れないと連絡を寄こしそうな気がする。
何だってどうでもよく思えてくるのだ。空の顔色ひとつで。
折り目のついてしまった本をテーブルに置き、わたしは窓の外を眺めた。
──傘?
いや、まだ降ってはいない。
私の目を吸い寄せた赤い傘はきれいに巻かれ、持つ人の歩調にあわせて、ふい、ふい、と軽く揺れながら去っていくところだ。傘の主は花柄の絨毯みたいな色とりどりの、厚手のコートの前を開けて向こうへ歩いていく。コートの裾がゆらりふわりと風に波をつくる。
少しふっくらしたその女(ひと)の顔も見えないのに、
──魔女がいる、
と私は思う。あれは魔女だ。たぶんそうだ。誰もが瞼をひくく下げて眉に皺をよせる、こんな空の下で、そんなことは知ったこっちゃないよと鮮やかに歩いていく。赤い杖をお供に。
──あれが魔女だ。
わたしは食い入るように美しいコートの背中を目で追うが、彼女はショッピングモールに入っていって姿が見えなくなる。
瞼にはまだ、彼女の色が残っている。
わたしはぬるくなったコーヒーに砂糖をふたつとミルクを足す。スプーンでぐるぐるぐるぐる掻きまわし、なにか元気の出る飲み物みたいに飲み干して席を立つ。会計を済ませ出ようとすると、遅れてきた待ち人がちょうどドアを開けてお詫びを口にする。
いいよ、
気にしないよ、
知らないよ、
ばいばい、
わたしはけらけら笑い、呆気にとられた相手を置いて店を出る。さよなら。本当はあまり会いたい人じゃなかったのに、なにを大事にしていたんだろう。
知らない、
知らない、
本当は嫌いな人も、空をふさぐ曇り空も。
魔女のおかげで、
もう知らない。
小さな命
(という題とは少しずれる
真夜中に、本を読んでる机の上を、ちっちゃな人が歩いていった。
大事に使って短く禿(ち)びた鉛筆くらい。ちっちゃなかわいい顔で、ちっちゃなゴム長を履き、古びた緑のコートの襟を立てて。
そんなのがトコトコと、釣り竿かついで歩いていく。
「どこへ行くの」と訊いたら私のミルクティのカップを指さす。見ていると、釣り糸の先をぽちゃんと投げこんだ。
金柑色のちっちゃな浮きが浮いている。
待つことしばし。ワッとちいさな声を上げ、ちっちゃな人は竿を引いた。
たぷんとミルクティのしずくが跳ねる。
ひとさし指の爪くらい……竿の先にはずんぐりした、おもちゃみたいなブルーグリーンの魚がかかって、ぱたぱたと尾を動かした。
ちっちゃな人は私に手を振り、魚を抱えて帰っていく。机の端でぴょんと跳んで見えなくなった。
少しためらってミルクティのカップを手にした。まだ暖かくていい香りがした。
夢かしら。あの魚はどこから来たのかな。
──と、口をつけてみたらなんてこと、ミルクティがちっとも甘くなくなっている。ああと思ったがもう遅い。あれは私が紅茶に溶かした、魚の形のお砂糖じゃないか。
やられたなあ。ちっちゃな釣り人は、夜のおやつを釣りにきたものらしい。
Love you
愛は勲章だと思っていた。
一度もらったら、ずっと胸につけておけるもの。
まさかそんなことはなく、
愛は欠けるし愛は錆びる。
気を払わずにいれば無くなる。
(落としてしまった。どこかの雑踏で。)
愛はたんぽぽの綿毛、
かもしれないと思っている。
古いコンクリの割れ目に落ちて知らぬ間に育っていたり、
誰かとそれを愛でることもある。
無造作に茎をちぎり、
青空に吹き散らして笑い合うあいだの光と
その行く先の予感とが
記憶の中にしまわれて
やがて忘れる。
忘れても、どこかにある。
太陽のような
(という題とは少しちがう
お月様が好きだった。
夜の種族というのがあるなら、私もその一員であればと思っていた。
夜は憧れ。夜は部屋の隅の椅子。
夜に飲む熱い飲みもの。
光の輪の中での読書。
密やかにぽつぽつとともる灯り。盗み見る孤独、手を繋がずにいる連帯が好きだった。
今は朝が好きだ。
自分を作るものが衰えてはじめて、光と熱を欲しいと思う。
私を過ぎた季節を恋しいと思う。
真昼を歩いても、私の芯は冷えている。これからもっと冷えていく。
私にもう無いものにひたされて歩く。
手のひらに落ちる木漏れ日は噛み取ったような形の小さなお日様で、決して掴めないそれに触れようと見つめても、目の裏が鮮緑に灼けるばかりだ。
0からの
0は植木鉢を上から見るかたち。
0は感嘆の声をあげる唇のかたち。息吹のかたち。
0は数と文字と記号の間のかたち。
0は、だから種のかたち。
0ははじまりのかたち。
はじまりはとても素敵で、食いしばる歯も硬く白い。
光に耐えられるほどに眼も強い。
私ははじまりたくて、はじまるところに居たくて、
でもしばらくすると大人の私が迎えにくる。
血管の浮いた手を差し出し、皺のある頬で微笑んで、
美しくない涙をこぼして、
0の私の光をわけて、と言う。
はじまりの私をポケットに入れ、
冷たい風の中を一人で歩いていく。
食いしばる歯は欠けて、
眼にはたくさん靄(もや)が見える。それでも、
風でにじんだ目の中に、ほら
七色の光があると言って、
年取った私は嬉しそうにする。
昔だったら愚かな年寄りだと断じたけれど
それを哀切に思い少し笑ってやる程には
0の私も年を取った。