/現実逃避
きしめんが食べたい。
深夜一時のキッチンで俺は思う。疲れて腹がすいたのに、冷蔵庫にも戸棚にも食欲をそそるほどのものはなかった。食いものがないのではなく、食いたいものがないのだった。
きしめんが食べたい。
俺はきしめんの味を思い出している。かなり昔に食べた味だ。名古屋駅の新幹線、10番11番ホーム。乗り場表示の号車番号が若いほうにホームを進んでいくと、立ち食いのきしめん屋があるのだ。
きしめん食べたい。
記憶の中、俺は古い食券機の前に立つ。メニューはさほど多くなく、食券機の上から1/3程度のボタンが機能している。俺が選ぶのはいつも決まってイカ天きしめんだ。素のきしめんなら300いくらだが少し物足りない。かき揚げは腹がふくれすぎる。エビ天を乗せると600円を越え、それは俺が駅きしめんに払う金額ではなかった。
ああ、きしめん。
店が空いていれば、カウンターに食券を出して一分足らずで丼が出る。いちどなんか二十秒ということがあった。あれが最速のきしめんだった。
香りのよいかつお出汁のつゆは丁度よくあっさりしていて、何となくいつまでも啜ってしまう。冷凍と思われる麺もつるりと好きな食感だ。イカ天は揚げおきだが、歯ごたえと油っけで満足感を与えてくれる。夢中で箸を動かす。底があらわれた丼をトンと置いたときの感覚が手と腹によみがえる。
きしめん、
ごちそうさんと言って店を出る。きしめんが腹を温かく満たしている。乗る予定の午後一時台の便まで残り七分、完璧だ。俺は自分の席がある号車の列に並ぶ。忘れずに、売店でお茶と小さな甘味を買って。
きしめん──
ふと我に返る。午前一時のキッチン。テーブルの陰には俺の知人が倒れている。口論の果てのことだった。積年のわだかまりもあった。手がすべったんだ。タイミングが悪かった。そいつは頭を打ち、血を流して動かなくなった。
きしめんだ。
あの一杯は、仕事と時間に追われる俺の癒やしだった。息継ぎのような束の間の熱い満腹感。俺はキッチンの椅子から立ち上がる。昔のように、すべきことが時のむこうから追ってくる。きっとくたくたになるだろう。けれど全て終えたら、あのきしめんを食べに行く。時が流れ、良い人間が悪人になり、きしめんの値段が上がったとしても。あのきしめんが昔のままの味ならば、俺はまだなにかを信じていられる。
大げさな話だが。俺は薄く笑って、夜明けまでにやらねばならぬ仕事にかかった。
2/27/2023, 2:00:10 PM