【神様へ】
最近は気温も上がり、随分と過ごしやすい気候になった。境内に植えられた桜も見事に咲き誇っている。ここは地味な場所だが、そちらを目当てに来る参拝者もちらほらいるようだ。
つい先日まで少し肌寒かったような気もするが、日本の四季はどうなってしまったのだろう。確か、各々の四季を司る女神がいたはずだ。彼女たちは案外気まぐれなのかもしれない。
私はぼうっと横になりながら、外の桜を眺めていた。ちぴぴ、と小鳥が数匹鳴いている。なんてのどかな日なのだろう。
大晦日、初詣、それとたしか……桃の節句も終わったか。次はなんだったっか……。
がららららん、がららららん。
ぱんっ、ぱんっ。
眠気眼でこの先の仕事について思いを巡らせていると、突如巨大な音に叩き起こされる。
こんな何もない時期に一体誰なんだ。
私の心地よい時間を奪った者を一目見てやろうと、体を起こして賽銭箱の前にいる人間に目を移した。
そこには、体の前で合掌し、力強く願っている制服姿の少年がいた。
ふむ、何かを願う姿勢は悪くない。どれ、内容も聞いてやらないこともない。
(神様へ、どうか、どうか、次の席替えこそ同じクラスのあの人と隣の席になりますように!)
初いやつめ。気に入った。
神はやはり気まぐれなのだ。
【言葉にできない】
換気のために開けられた窓の隙間から、暖かなそよ風が吹き込む。それは、窓際の席に座る彼女の繊細な髪をなびかせ、ヘアオイルだろうか、優しく甘い香りを私の鼻腔に行き届かせた。
「今日はお散歩日和だね」
隣に座る私に向かって彼女が微笑む。
その静かに囁くような声は、教室に充満した種々様々な談笑の中でも、私の耳にはより際立って聞こえる。
なんの変哲もない日常的な会話だというのに、細められた目や頬に浮かんだえくぼ、彼女の静かで遠慮がちな笑い声が心をくすぐった。
密かに芽生えた、決して表に出してはいけないはずの感情が、彼女と接するたびに膨らみ、自らを主張する。
『私、あなたのことが好き』
何度、そう言えたら、と夢見たか。彼女と交際をする夢想を繰り広げたか。それが叶った人生が、どれほど鮮やかに晴れ渡った世界だったか。
それでも、現実として進んでいるこの世界において、彼女への気持ちを言葉にすることはできないだろう。
スカートの裾をきゅっと摘みながら、コップ一杯に満ちた気持ちに蓋をする。
私は、拒絶に染まるあなたの顔など、望んでいないのだ。
【また会いましょう】
凍てつく外気が皮膚を刺す。真っ暗闇が広がった夜空には、ぼんやりと月が浮かんでいる。
今が何時で、ここがどこなのか定かではない。ただ、感覚に訴える刺激が、ここは現実だ、と言っているようだった。
俺は、ビルの隙間を縫うように逃げ惑う男の背中を追っていた。彼がなぜ逃げていて、俺がなぜ彼を追っているのかはわからない。意識が晴れた時にはすでに、この関係が始まっていた。
俺は懸命に駆ける。冷えで鈍くなった関節を無理矢理に動かす。男の背中が眼前にまで迫ると、腕を伸ばしてそいつを突き飛ばした。
男は突然の衝撃に耐えかね、情けない声をあげながらコンクリートの地面に転げ落ちた。車に轢かれた蛙のようにひしゃげると、おどおどとした顔でこちらを振り返る。
なんとも情けない顔だった。その顔を見ていると、なぜか無性に殺意が湧いた。自分の中にこんなにもどす黒い感情が潜んでいるなんて、信じられなかった。
俺の手には月光を反射する一本のナイフが握られていた。柄を握りしめ、思い切り得物を振り上げる。
なんの躊躇いもなく、男の首筋に鋭利な刃先を突き刺した。鮮やかな血飛沫が吹き上がり、鉄の匂いが後から鼻腔へ入り込む。
何度か鮮血の噴水を出したところで、俺はふと我に返り前方に目を向けた。
男が立っていた。俺に似た男だ。そいつが暗闇でもわかる程ニヤリと微笑む。
「また会いましょう」
何を言っているかわからなかった。
俺はそこで意識を失った。
目を覚ますと、見知ったベッドの上にいた。
何か嫌な夢を見たような気がする。あまりにも現実味が強かったためか、全身が汗でぐっしょりと濡れている。
とりあえずシャワーでも浴びようとベッドから降りた時、何か嫌な匂いを自分が発していることに気がついた。
汗? いや、違う。記憶にある匂いだ。それもつい最近。
俺は急いで洗面所へ向かった。鏡で自分の姿を確認すると、そのおぞましい姿に絶句した。
返り血を浴びたかのような血塗れの俺が、そこには立っていた。
【飛べない翼】
男はギプスに包まれた右腕を天井にかざし、上から注ぐ照明を遮った。
外からは見えない掌を動かそうとしても、雁字搦めに腕を捕らえた包帯がそれを許さない。骨が軋むような痛みだけが右腕には残されていた。
「これじゃ、もうお前を抱きしめることもできないな。使い物にならない腕になっちまったよ。こんなもの、飛べない翼と同じだ」
男は、隣に寝転んでいる彼女へそう呟く。
彼女は無言で、男の腕を見つめていた。
数秒の沈黙を置いて、彼女が口を開ける。
「……何たそがれてんだ。腕折っただけだろうが」
「うるせ! だけってなんだ! こちとら――」
「はいはい、私を車から庇おうとしたら転けて骨折したんでしょ? 何回目?」
「クッソ〜〜〜! 覚えてやがれよ恩知らず!」
「はーい、ありがとうございました優しい彼氏さん」
彼女はそっと男の肩に頭を預け、ギプスに包まれた右腕を優しく撫でた。
男はそれだけで何もかも許せてしまうのだった。
【理想郷】
俺は夢を見ていた。
目を覚ませば、至るところに俺を好く女がいる。酒は湯水の如く湧いて出るし、嫌味ったらしい上司も俺に平伏している。
俺はその国の絶対的な王者だった。何をしても許されるし、俺が言ったことがその国の秩序になるのだ。
以前まで俺が暮らしていた国は、本当にどうしようもない場所だった。俺を馬鹿にする奴らばかりの、腐りきった国。
頭ごなしに俺を否定する、人格が破綻した上司。俺の気持ちをちっとも理解しようとしない、口だけでかい女。少し社会に出るのが遅れただけで、そのことをグチグチと言い続ける毒親。
あいつら全員腐ってやがる。俺は常日頃からそう思っていた。
だから、全員手に掛けた。俺が新しい国へ行く前に、せめてもの配慮で全員あの世に送ってやった。
あいつら、今頃閻魔様の御前で泣き喚いているに違いない。
そう思うと、今までの鬱憤も晴れるようだった。死ぬ間際にも関わらず笑みが止まらない。
俺は新しい国へ行くための切符を思い切り蹴り上げる。椅子がガコンッと倒れ、俺は宙吊りになった。
意識が遠のいていく。待っていてくれ、俺の理想郷。
目を覚ますと、はじめに飛び込んできたのは死体の山だった。腐乱臭と血の臭いが充満している。
あちこちから想像を絶するほどの悲鳴と怒号が耳へ流れ込んでくる。
「俺じゃない、俺はやってない!」
「どうしてこんな酷いことするの、私じゃないんだって!」
「あいつが悪いんだ! 俺はこんなところにいるはずじゃないんだ!」
「さて、君の前科は?」
いつの間にか、目の前には巨大な男が座っていた。口ひげを蓄えた威厳のある赤鬼。そいつが、私を見下してにやりと嫌な笑みを浮かべていた。