【懐かしく思うこと】
私がまだ小学校低学年だった頃の話だ。
私の祖父母は××県の山村で民宿を営んでいた。帰省した際はその空き部屋を使わせてもらったものだ。
民宿は山に通った国道のちょうど真ん中辺りに建っており、その上にもさらに急勾配で幅の狭い道路が続いていた。
帰省して数日、その日も私は暇を持て余していた。一人っ子の私には遊んでくれる兄弟もいなかったし、帰省先のため友達なんているわけもない。そんな私に残された娯楽は、山中を探検することくらいだった。
祖父母に出かけてくる、と告げて外へ踏み出す。夏のじりじりと皮膚を焼くような陽射しが私を照り付けている。既に首筋へ浮かび始めた汗の玉を拭い、蝉時雨が降り注ぐ山林へと進んでいった。
スギの大木があちこちに聳え立っている。生い茂った葉が地面に影を落とし、先程までの茹だるような暑さは消えていた。代わりに、肌寒いというか、薄暗く不気味な雰囲気が漂っている。
私はずんずん奥へと進んでいった。奥と言っても目的地があるわけではなく、ある程度飽きるところまで進めば引き返そうと思っていた。
そんな時、前方に構えたとあるスギの上から、密かな視線を感じた。
小動物だろうか?
咄嗟に私はそう勘ぐった。この森にはリスやムササビ、そういった類の小動物が暮らしているからだ。
私はじっと視線を感じた先を見やる。スギの幹の後ろ、十数メートルほどの高さから、何かの頭が覗いていた。
子どもだ。私と同じくらいの子どもが、頭だけを幹から出して、無表情が張り付いた顔でこちらをじっと覗いていた。
目が合った、と感じるや否や、私はそいつに背を向けて駆け出した。直感的に恐怖を覚えた。
懸命に足を前に踏み出して、なんとか祖父母の民宿へ飛び込むと、私はそこに倒れこんだのだった。
私はあの時、あれはこの世の者じゃない、と直感した。よくよく思い返してみれば、スギの木は頭の方に多く枝を茂らせる。地上十数メートルのあたりまで、当時の私と同じくらいの子どもが登れるわけがなかったのだ。
【衣替え】
最近、どうにも美智子の様子がおかしかった。
同じクラスに在籍する美智子は、元々明るく快活な少女だった。授業中にはよく手を挙げて黒板に数学の解答を板書していたし、放課後になると他クラスから部活動の仲間がよく美智子を尋ねてきていた。
しかし、最近の美智子は一言で言うと生気がない。私が声を掛けても精気を吸い取られたような眼でぼうっと振り返るだけだ。学校には来ているが、部活動には参加していないらしい。本人は「気にしないで」というので、一、二週間程経つと皆はその美智子を普段通りだと思うようになっていった。
壇上では担任が朝の挨拶をしている。隣の席に座る美智子は相変わらず青白い顔で前方を見据えている。
「また別の学年で行方不明者が出ました。ここ最近、近辺で不審者の情報も相次いでいます。皆さん、くれぐれも登下校には気をつけてください」
最近どうにも物騒なようで、他学年での行方不明者が相次いでいる。これで三人目だっただろうか。他校でも同様の事件が起こっているらしく、今朝も母親から注意するようきつく言われた。
すると、美智子がその細い腕をそっと掲げた。
「八屋さん、どうしました?」
八屋、というのは美智子の名字だ。
美智子は担任に名指しされ、ぼそぼそと小さな声で呟く。
「体調悪くて。保健室、行ってきます」
確かに美智子の皮膚は見るからに青白かった。普段通りだと思っていたが、体調が優れなかったようだ。
それに、十月になったというのに未だに美智子は半袖のままだった。皆衣替えをしてカーディガンやブレザーを羽織っているというのに、彼女だけは薄いシャツから青白い細腕を出していた。
美智子は担任からの了承を得ると、おぼつかない足取りで教室を後にする。時たまに体調不良で保健室へ向かう女生徒がいるため、特段教室がざわめくようなこともなく、担任はそのまま話を続けようとした。
私はすかさず手を挙げて話を遮る。
「あの、すみません。美智子が心配なので、一緒に行ってきます」
明らかに具合の悪そうな美智子を、友人として一人で保健室へ向かわせるわけにはいかなかった。担任もこれに異を唱えることなく、私は急いで美智子の後を追いかけた。
保健室は一階にあるため、階段を駆け足で降る。踊り場の辺りまで降りると、保健室とは別の階で美智子が廊下へ出る後ろ姿が見えた。
美智子は保健室へ向かったのではなかったか。私は疑問に思い、その背中を追う。彼女は廊下を奥へ奥へ進むと、人気のない空き教室へ入り込んだ。
私は悪い気を持ちながらも、少し空いた扉の隙間からその様子をそっと覗き込む。
カーテンが閉まりきった暗がりの教室の中で、美智子は肌をこすっていた。掌で皮膚を引っ張るようにこすり、こすり、こする。するすると皮膚が剥けていく。よく見ると、皮膚と一緒に着ていたシャツやスカートも、まるで皮膚と同化しているかのように剥けていく。
皮膚がまるまる向けた中には、美智子がいた。カーディガンを纏い、スカートの下には黒のストッキングが見える。
その光景は、カエルやトカゲが自らの皮膚を引っ張りながら脱皮をする様子に似ていた。
訳がわからなかった。私が知っている美智子は、いつの間にか知らない美智子になっていた。
私はその光景から受けた衝撃のあまり、額や掌に汗を浮かべる。扉に手をかけると、ギィと鈍い音が響いてしまった。
音に反応したのか、美智子がこちらをゆっくりと振り向く。
「……見た?」
美智子の口が、頬の端まで裂けそうなくらいにニタァ、と広がった。
【秋晴れ】
その夜は酷い嵐だった。
深い山の奥で薪拾いをしていたランは、力強くそびえ立つ大木を見つけ、その下に駆け込んだ。大木から張り巡らされた葉が雨を退けてくれたが、寒風は変わらず体温を奪い体を痛めつける。
なんとかこの夜をしのごうと体を丸め雨風に耐えていたとき、ふと後ろから声をかけられた。
「お嬢さん、大丈夫かい?」
ランと同じくらいの少女の声だ。
振り向くと、藁を束ねて作った甲羅のようなものと、笠を被った少女が立っていた。黒髪を可愛らしくおかっぱに整えている。
少女は優しく微笑むと、この先に使っていない小屋があるから一緒に行こう、と誘ってくれた。
小屋には小さいながら囲炉裏が備えてあり、ぱちぱちと温かな火が弾けていた。ランと少女は囲炉裏を囲んで二人で暖を取った。
「それにしても、こんな嵐の中災難だったねぇ」
「うん。でも、あなたに会えて本当によかった。あのままじゃ凍え死んじゃうところだったよ。あなた、お名前は?」
「あたしはヤマコ」
ヤマコと名乗った少女は、ニカッと歯を出して可愛らしく微笑む。
「ヤマコ、可愛い名前ね。ねぇ、ヤマコ。あなたが着ていたあの藁でできた甲羅みたいなもの、どこかで見たことがあるような気がするんだけど、なんて言う着物なの?」
「あはは、あれは着物なんていう洒落たもんでねぇが、蓑っちゅう雨具よ。この辺りじゃ着てる人はいねぇかなぁ?」
「私はあれを着ている人、見たことないな。ヤマコはこの小屋に住んでるの? 親御さんとかはいないの?」
「いんや、あたしもランと同じ村に住んどるよ。ランは気づいてねぇかも知んねぇけど」
「……あれ、私、名前言ったっけ?」
「あんれ、言うてなかったけ? まあ、もう夜も遅いもんだから、嵐が止むまでここで泊まってきな」
ランはヤマコの言葉に謎の引っ掛かりを覚えた。
確かにランは山の麓にある村に住んでいた。住民の少ない小さな村だ。ただ、狭い社会だからこそヤマコという少女が村にいないことを知っていた。
それに、自分の名前を教えた覚えはなかった。聞かれなかったからに過ぎないが、それがふとランの心に疑念を抱かせる。
小屋には獰猛な強風が壁を叩く音と、ぱちぱちと火が弾ける音が流れている。
ランは記憶を辿りヤマコのことを想い出そうとしたが、そうこう考えているうちに眠りに落ちてしまった。
深いまどろみから目を覚ますと、既に嵐は止んでいた。囲炉裏には黒い燃えかすとなった炭が残されている。
ヤマコは小屋から姿を消していた。
キィと小屋の扉を開くと、地面には所々に昨夜の嵐の惨状が見て取れた。大きな水溜りには青々と輝く秋晴れの空が映されている。
ランは家族に無事を伝えるため、急いで村まで戻っていった。
山と村の境目まで来ると、視界が開け一面田んぼの世界が広がった。その中に、見覚えのある雨具を着た人物が立っている。
「ヤマコ! おーい、ヤマコ!」
ヤマコだ。ヤマコは本当にこの村の住民だったのだ。
ランは昨夜抱いた疑念が記憶違いだったのだと思い直し、田んぼに立ったその人物のもとまで勢い良く駆け寄る。その姿が近くまで迫った時、ランはそれが昨夜出会ったヤマコではないことに気がついた。
田んぼに立っていたのは、蓑笠を被った案山子だった。顔面にはへのへのもへじが書かれており、黒いおかっぱのカツラが被せてある。
へのへのもへじと言うと、口の部分が『へ』の形になっていて機嫌が悪そうな顔をしているが、その案山子はアルファベットの『V』のような口をしていた。そのにこりとした顔が、ヤマコの可愛らしい笑顔と重なった。
嵐の夜、私を助けてくれたのはこの案山子だったのたろうか。
真実の程はわからないが、ランは案山子に頭を下げて帰路に付く。
空には雲一つない晴天が広がっている。燦々と照りつく太陽が、ランの行く道を明るく照らしていた。
【忘れたくても忘れられない】
ベランダでのんびりとコーヒーを嗜むのが、私の至福の時間だった。
朝日はまだ顔を出したばかりで、ひんやりとした空気が肌を撫でる。寝間着のままだったので、上に何か羽織るものを、と部屋に引き返そうとした時、視界に何かが入り込んだ。
私は外を振り返って向かいのマンションを見つめる。やはり何かが動いている。さらにじっと目を凝らすと、そこには女が髪をなびかせて立っていた。私が五階に住んでいるので、彼女は七階あたりの住民だろう。
同じく寝間着姿の女は、私に気がついたのかこちらへ微笑みながら手を振ってくる。よく見るとなかなかの美人だ。私も気分が良くなって手を振り返す。ここから始まる恋愛もあるのかも、と心が踊りだした矢先、彼女がベランダの手すりに足をかけ出した。
咄嗟のことで声が出なかった。
彼女の視線は尚もこちらを見つめている。距離があって本来なら見えないはずの瞳の奥まで、そのときはなぜか見えた気がした。
瞳の中に潜んでいたのは闇よりも深い漆黒だった。そこには漆黒が飼われていた。それが彼女の笑みを特段不気味なものへ昇華する。私は彼女の準備が済むまでの間、その瞳に魅入られていた。
準備が整うと、彼女は声も出さず空中へ飛び降りた。
直後、嫌な音がこだまする。
私は震えてまともに動かない手で、なんとか救急の番号へ電話をかけるのだった。
あの時の彼女の瞳、響き渡った肉塊が弾ける音は忘れたくても忘れられない。
あれ以来、私はベランダへ出ていない。外を見ると、脳裏にびっしりと染み付いたあの映像が、事細かに再生されるのだ。
【高く高く】
日がゆっくりと沈み、夕日が辺りを照らし始めていた。少年の影が異様な形をして伸びていき、路地の両端に構えられた石塀に歪に屈曲してその姿を写した。頭上では、かぁかぁと烏たちが不気味な合唱を奏でている。
不穏な空気がそこかしこに纏わりついていた。なにが、とは明確に言い表せないが、この時間になるとこの世のものではない何かが湧き出て来ているような気がするのだ。今この瞬間にも、死角から得体のしれない何者かがこちらを狙っているのではないか、と思うほどだ。
少年は早足になって帰路を急いだ。今すぐにでも家に飛び込み、自分の帰りを待っている母親の顔を見て安堵したかった。
少年は無心になって目的地を目指したが、ふと背後から何者かの視線を感じて立ち止まった。否、立ち止まった、というよりも立ち止まらされたのだ。
その視線は明らかに少年の背中を凝視している。下から見つめられたかと思うと、それは徐々に上から見下ろすように視点自体が上がっていっているような感覚がした。
少年はいても立ってもいられず、ばっ、と背後を振り返った。
人間の顔だった。煙の中に浮かび上がった青白く、にたぁ、といやらしく下卑た笑みを浮かべた顔が、ぼんやりとそこに漂っていた。顔は煙の流れに沿って高く高く立ち昇る。背後にあった民家の二階あたりまで昇っていくと、ふっ、と消えてしまった。
後日、少年は近所で古びた駄菓子屋を営む男の家を訪ねていた。
男は物好きとしてこの辺りでは有名だった。とりわけ風俗的なことや伝承に詳しく、少年が出会った何者かについても知っているのではないかと踏んだのだ。
「坊主、それは煙々羅(えんえんら)という煙の妖怪だな。はるか昔、江戸時代のとある画家が描いた今昔百鬼拾遺という――と、こんな話してもつまらねぇか」
男は一人で楽しそうに笑いながら話していた。
少年にとってはちんぷんかんぷんな内容であったが、とりあえず悪いものではないようだったので、ほっと胸を撫で下ろした。
男が言うには、あのくらいの時間はちょうど現世と異界の境界線が曖昧になり、此方側に魔が入り込んでくることがあるそうだ。
「気をつけねぇと、今度は坊主が迷い込んじまうかもしれねぇな」
男は嫌な笑みを浮かべながらそう冗談を言った。冗談かどうかは定かではないがそう思い込む他ない。
少年には男の笑みが、あの時に見た煙の妖怪の笑みと同じくらい気味悪く思えた。