ハイル

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【高く高く】

 日がゆっくりと沈み、夕日が辺りを照らし始めていた。少年の影が異様な形をして伸びていき、路地の両端に構えられた石塀に歪に屈曲してその姿を写した。頭上では、かぁかぁと烏たちが不気味な合唱を奏でている。
 不穏な空気がそこかしこに纏わりついていた。なにが、とは明確に言い表せないが、この時間になるとこの世のものではない何かが湧き出て来ているような気がするのだ。今この瞬間にも、死角から得体のしれない何者かがこちらを狙っているのではないか、と思うほどだ。
 少年は早足になって帰路を急いだ。今すぐにでも家に飛び込み、自分の帰りを待っている母親の顔を見て安堵したかった。
 少年は無心になって目的地を目指したが、ふと背後から何者かの視線を感じて立ち止まった。否、立ち止まった、というよりも立ち止まらされたのだ。
 その視線は明らかに少年の背中を凝視している。下から見つめられたかと思うと、それは徐々に上から見下ろすように視点自体が上がっていっているような感覚がした。
 少年はいても立ってもいられず、ばっ、と背後を振り返った。
 人間の顔だった。煙の中に浮かび上がった青白く、にたぁ、といやらしく下卑た笑みを浮かべた顔が、ぼんやりとそこに漂っていた。顔は煙の流れに沿って高く高く立ち昇る。背後にあった民家の二階あたりまで昇っていくと、ふっ、と消えてしまった。

 後日、少年は近所で古びた駄菓子屋を営む男の家を訪ねていた。
 男は物好きとしてこの辺りでは有名だった。とりわけ風俗的なことや伝承に詳しく、少年が出会った何者かについても知っているのではないかと踏んだのだ。

「坊主、それは煙々羅(えんえんら)という煙の妖怪だな。はるか昔、江戸時代のとある画家が描いた今昔百鬼拾遺という――と、こんな話してもつまらねぇか」

 男は一人で楽しそうに笑いながら話していた。
 少年にとってはちんぷんかんぷんな内容であったが、とりあえず悪いものではないようだったので、ほっと胸を撫で下ろした。
 男が言うには、あのくらいの時間はちょうど現世と異界の境界線が曖昧になり、此方側に魔が入り込んでくることがあるそうだ。

「気をつけねぇと、今度は坊主が迷い込んじまうかもしれねぇな」

 男は嫌な笑みを浮かべながらそう冗談を言った。冗談かどうかは定かではないがそう思い込む他ない。
 少年には男の笑みが、あの時に見た煙の妖怪の笑みと同じくらい気味悪く思えた。

10/14/2023, 2:01:12 PM