【忘れたくても忘れられない】
ベランダでのんびりとコーヒーを嗜むのが、私の至福の時間だった。
朝日はまだ顔を出したばかりで、ひんやりとした空気が肌を撫でる。寝間着のままだったので、上に何か羽織るものを、と部屋に引き返そうとした時、視界に何かが入り込んだ。
私は外を振り返って向かいのマンションを見つめる。やはり何かが動いている。さらにじっと目を凝らすと、そこには女が髪をなびかせて立っていた。私が五階に住んでいるので、彼女は七階あたりの住民だろう。
同じく寝間着姿の女は、私に気がついたのかこちらへ微笑みながら手を振ってくる。よく見るとなかなかの美人だ。私も気分が良くなって手を振り返す。ここから始まる恋愛もあるのかも、と心が踊りだした矢先、彼女がベランダの手すりに足をかけ出した。
咄嗟のことで声が出なかった。
彼女の視線は尚もこちらを見つめている。距離があって本来なら見えないはずの瞳の奥まで、そのときはなぜか見えた気がした。
瞳の中に潜んでいたのは闇よりも深い漆黒だった。そこには漆黒が飼われていた。それが彼女の笑みを特段不気味なものへ昇華する。私は彼女の準備が済むまでの間、その瞳に魅入られていた。
準備が整うと、彼女は声も出さず空中へ飛び降りた。
直後、嫌な音がこだまする。
私は震えてまともに動かない手で、なんとか救急の番号へ電話をかけるのだった。
あの時の彼女の瞳、響き渡った肉塊が弾ける音は忘れたくても忘れられない。
あれ以来、私はベランダへ出ていない。外を見ると、脳裏にびっしりと染み付いたあの映像が、事細かに再生されるのだ。
10/18/2023, 4:54:30 AM