【別れ際に】
私は見知らぬ土地に立っていた。
頭上には多くの大木から張り巡らされた無数の枝葉が生い茂る。空すら拝めぬ暗闇のカーテンは、鬱々とした空気を周囲に漂わせていた。
眼前にも同様に暗闇が続いているが、そこに一人、白装束の人間が立っていた。顔を手で覆い隠しているため誰かは判然としない。長い髪を後ろに垂らしているのでおそらく女性だろう。
女は顔を隠しながら震えた声で話しかけてきた。
「私を見ないでくださいな」
聞いたことのある声だ。ぼんやりと声の主を思い浮かべるが、顔にモヤがかかっておりどうにも思い出すことはできない。
女は時折しゃくり上げながら、尚も話しかけてくる。
「あなたがこちらに来るのはまだ早いの。後ろに灯りが見えるでしょう。その灯りを目指して早くここから出て行って」
背面を見据えると、確かに彼女が言った通り小さな灯りが見えた。
正直、言っている意味はよくわからなかった。しかし、彼女の言った通りにしなければ、何か取り返しのつかないことが起こるのではないか、という恐怖が内から湧き出ていた。
私は彼女に礼をいい、背面の灯りに向かって歩みを進める。灯りは坂の上からこちらを照らすように光を放っていた。
坂を登る前に、もう一度助言をくれた彼女に礼を言おうと振り返る。
そこで私は見てしまったのだ。露わになった彼女の顔を。
彼女の顔は、元々そこに張り付いていたであろう皮膚が腐り落ち見るに堪えないものだった。眼球の一つは完全に外れ眼窩に深淵が広がっている。もう一方は視神経の一つでなんとか繋がっているのか、ぷらんぷらんと宙に揺れていた。
「……だから、言ったのに」
その一言を皮切りに、私は全力で坂を駆け上がる。
私は彼女のことをよく知っていたし、この話にも聞き覚えがあった。
別れ際の彼女の顔も表情も、あの悲しげな声色も、私は全てひっくるめて一生涯忘れることはできないだろう。
【通り雨】
私は代わり映えしない帰路を辿っていた。
等間隔に並ぶ電灯、風に葉を揺らす街路樹、家族団欒の声が聞こえる一軒家。
私はそれぞれをぼうっと眺めながら物思いにふける。
明日も明後日もその先ずっと、今日みたいな日が続くのだろう。昨日もそうだったのだから、多分間違いない。
そんなことを考えていると、向かいから女性が歩いてきた。少し下を俯きながら、早足になっている。肩に提げたビジネスバッグをギュッと握り締めていた。
私は彼女が通れるよう、少しだけ左に身を寄せる。
彼女との距離が縮まったとき、私はあるものを目にした。
涙だ。彼女の瞳はうるうると輝き、そこから大粒の涙を落としていた。
彼女はそのまま通り過ぎる。 すれ違いざま、何かがカランカランと落ちる音が聞こえた。
咄嗟に地面に目を落とすと、足元に転がってきたそれは、リップクリーム、だろうか。私のものではないので、彼女のものだろう。
私は屈んでそれを拾い上げた。彼女は気がついていないのか、すたすたと歩みを進めてしまっていた。
引き止めるべきか否か、私は考えあぐねた。涙する女性にどう声をかけるべきなのか。今は一人になりたい気持ちかもしれないし、見知らぬ男に声をかけられたら気分を害すかもしれない。
私はどうにも消極的にその状況を捉えていたが、最後には結局足を彼女に向けて進めていた。
通り雨のような彼女。私は彼女が降らした涙に儚さを感じ、身体を突き動かされたのだった。
【秋🍁】
連なる山々は紅葉で自らを彩っていた。
ひらひらと一枚のカエデが男の頬に舞い落ちる。ややしっとりと湿気を持っているのは、昨夜降り続いた雨のせいだろう。
男はぐちゃりとした地面の上に寝そべっていた。下には紅葉によって作られた紅色のカーテンが敷かれている。
そこにてらてらと輝く流血。
腹部に突き刺さったナイフの傍から、それは流れ続けていた。
まだ息をしているが、もう少しもしないうちに自分は息絶えるのだろう。男は血が薄くなった脳でぼんやりとそう感づく。
男によって作られた血溜まりは、紅色のカーテンを一層赤黒く彩り、華麗に仕立て上げていた。
【形の無いもの】
形の無い者に目をつけられてから、私はひたすら山道を登っていた。人の往来により作られた獣道をハッハッと過呼吸になりながら駆け上がる。
獣道は綺麗に舗装されているとは言い難く、時折地上に張り巡らされた木の根に足をすくわれ転けそうになる。なんとか体勢を保ち、追手が迫っていないか後ろ目に確認した。
形の無い者は私の背後から二メートルほど間隔を置いて追ってきていた。形は無いが、空気の歪のようなものがぼんやりと浮かんで見える。私が通った道がその奥に透けて見えるので、"形は無いがそこにいる"ことは確かだ。
それは形こそ無かったが「オォォ……オォォ……」と鳴き声のような音をあげていた。人間の声だ。理性をなくした人間の鳴き声はああいった感じなのだろう。
その声からは、怨嗟、嫉妬、憐憫、憤怒などといった人間の内部に黒く渦巻く負の感情が混ざり合っていることが窺える。少なくとも私はそう感じた。あの声を聞くと、どうしても耳を塞ぎたくなるのだ。
負の感情の集合体は、行き場を探しているのだろうか。
ふと、私は背後に形の無い者を感じながらそう考えた。
人が抱えきれなくなった感情の集合体があれならば、それは本来あった場所――人間の内部に帰ろうとしているのではなかろうか。
だからといって、自分がその受け皿になり正気を保てる自信は微塵もなかった。自分一人の感情の起伏ですら身が張り裂けそうになるのに、他人が抱える負の感情を請け負うなんて。それは、この世で考え得る中でも非常に過酷な拷問ではなかろうか。
本来であれば、負の感情は適切に発散され、浄化していくものなのだろう。しかし、それを誤れば背後に迫る集合体のように、他者に理不尽にぶつかる暴走した感情と成りかねない。
私は依然「オォォ……」と悲痛な鳴き声を上げる形の無い者から逃げ惑う他なかった。
【ジャングルジム】
公園にあるジャングルジムの上で、僕は地面を見下ろしていた。
着地点を想定し飛び降りる準備をしたが、足がすくんで動けない。握り締めた鉄の格子に手汗がつき、滑り落ちてしまいそうだった。
後ろから声がかけられる。
「おーい、大丈夫?」
幼馴染の長谷川だ。肩に掛からないくらいで切りそろえた髪が風に吹かれて揺れている。
「だ、大丈夫。飛べるよ」
「無理しなくていいって。ほんっとうに意気地なしだな〜」
「飛べるもん! ちょっと考えてたんだ。そう言う長谷川は飛べるのかよ!」
「ウチは飛べるよ〜」
長谷川はそう言うと、華奢な体躯からは想定できないほど高く飛び降りる、もとい跳び降りた。
姿勢を正したまま綺麗に着地した長谷川は、僕の方を振り返りニッと笑いかける。
「ね? 綺麗だったでしょ?」
「……ま、まあ、すげぇじゃん」
「素直じゃないなー!」
長谷川は大きな口を開けて笑い出した。
馬鹿にされてるみたいでこっぱずかしかったが、長谷川はただ単に楽しくて笑っているだけだろう。彼女はそういう人間だった。
あの日以来、彼女は僕が成し得ないことを成し遂げる、憧れのような存在になった。
そんな憧れだった長谷川が、この間亡くなった。
五階建てのビルから飛び降りたらしい。
本当の理由は知らないが、俺は仕事上のストレスだか人間関係だかを疑っている。この間もその類の相談を持ちかけられたからだ。俺は彼女の話を聞くことしかできなかった。
憧れの長谷川が徐々に萎んでいくのを、俺は見ていられなかった。
「ようやく解放されたんだな、長谷川」
俺は夜空を見上げて呟いた。
そのまま足を一歩踏み出す。下を見なけりゃ怖くない。
俺の身体が十階のビルから真下に落ちていく。ゴウウウと荒々しい音を立てながら風が俺を包み込む。
見てるか長谷川。俺、お前よりも高いところから飛んでるぜ。
最後の最後に憧れの人を追い越せたのが嬉しくて溜まらず、俺は自然と笑顔になりながら真下の地面に直撃した。