【声が聞こえる】
日が沈むのが早まり、薄手の半袖一枚では肌寒くなってきた九月下旬。私は小学校の同級生六、七人と、山道の途中にある廃屋にいた。小学校の裏山にあるその廃屋には幽霊が出ると噂されており、遊び場の開拓兼肝試しのために足を運んだのだ。
山道といっても、この町と隣町を繋ぐ国道であるためそれなりの交通量がある。時折背後からブオオンとガスを撒きながら加速する車の音が聞こえた。
そんな山中に佇んだ廃屋は、その周囲だけが静寂に包まれている。山道から一歩踏み出すと、そこはまるで異世界のようだった。
廃屋は二階建てであり、近寄ると巨大な家の怪物のようだ。家自体に覆いかぶさるように生えた周囲の木々が闇を落として、その雰囲気をより一層不気味にさせている。
「おい、隠れんぼしようぜ」
皆が廃屋の中に足を踏み入れると、仲間の一人がそう提案する。
正直に言うと、私は物凄く嫌だった。この場所は暗くてじめじめしていて、廃屋の中に人間以外の何かが巣食っている気がしたからだ。それでも、ここまで来てしまっては、今更否とは言えるまい。
弱音を吐きながら文句を垂れる者もいたが、誰かが「最初はグー」と声をかけると、誰も遮ることなくすんなりと鬼が決まった。
「見つかったら玄関で待機な」
リーダー格の少年はそう言うと廃屋の中に進んでいく。私もその後を追った。
長くこの家の中に隠れているのが嫌だったため、すぐに見つかるであろう手頃な隠れ場所を探す。私は入って直線に進み一つ部屋を飛ばした先にあるキッチンに隠れることにした。
もう何年も前に役目を終えたキッチンには、以前の住民が使っていたであろう生活品がまだ残されていた。まな板や鍋がそのまま置きっぱなしにされている。生々しさを感じるためなるべくそれらを目に映さないよう、私はテーブルの下に身を隠した。
「……さーん、にーい、いーち。もーういーいかーい」
鬼が問い掛けると「もーういーいよー」と家中から幼い声があがった。
それからは鬼が来るまでじっと身を潜めるだけだった。鬼はすぐに私を見つけた。そのまま玄関まで連れだされ、私より先に見つかった仲間と皆が捕まるまで駄弁っていた。
「お前、この間出たマリオ買った?」
捕まった仲間の一人が私に問いかける。
「いや、うちファミコンないもん。もしかして買ったの?」
「そう、この後みんなで家来ない?」
少年が周りの皆にも「この後どう?」と誘っている。
すると、最後の一人を探していた鬼が戻ってきた。最後の一人は三浦くん、通称みっくんだ。しかし、鬼の隣にみっくんの姿は見当たらない。
「あれ、みっくんは?」
「んや、あいつ隠れんの上手くて見つかんねぇわ。それより、何の話で盛り上がってたんだ?」
「この後家でマリオするんだけど、お前も来ない?」
「まじ? 行く行く!」
そのうち、私たちはみっくんのことをすっかり忘れて山を下ってしまった。
みっくんのことを思い出したのは、新作のゲームを堪能して家に帰り布団に就いたときだった。今更みっくんのことを親に言うと絶対に怒られることがわかっていたので、言い出すことができなかった。それに、みっくんだって馬鹿じゃないんだから一人で帰っているだろう、と私は思い込むようにした。
次の日から、みっくんを学校で見ることはなかった。
私はそこで目を覚ました。ひどく汗をかいている。
嫌な夢を見ていた。幼い頃の記憶の断片だ。どこまでが本当だったか定かではない。小学校の級友とは久しく会っていないし、会ったとしても彼のことを話そうとはしないだろう。
彼が学校に来なくなってから、あの日集まった私たちは彼の話をしなくなった。彼は、あの日を境に学校が嫌になったのか、それともあの町から引っ越したのか。そもそも、本当に存在したのか。私は全ての記憶に蓋をしてしまったみたいだ。
ただ一つ言えることは、未だに彼の幼い声が、私の耳にこびりついているということだ。少なくともあの声は実在している。
彼はまだ私たちから隠れている。私たちが探しに来るのを待っている。
ほら、今もふすまの奥から声が聞こえる。
「もーういーいよー」
【秋恋】
ほぼ定時で退勤したというのに、外に広がる夕日は既に沈もうとしていた。
最近、日が沈むのが早くなってはいないだろうか。私の気のせいなのだろうか。
この『気のせい』を繰り返していると、いつの間にか冬を迎え、さらに繰り返すと秋になる。人間の時間の進み方は、気にしていなければいつの間にか人生が終わっているんじゃないかと思えるほどに早かった。実際、私は気づけば還暦を迎えようとしていた。
私は帰宅ラッシュの電車に揺られて自宅を目指す。吊革に掴まり自分のスペースを確保するが、周囲の人々ともみくちゃになって息苦しい。じめっとした空気が電車内に漂っているのも不快だ。
何故行き帰りの電車でこんな苦行をしなければならないのだ、と辟易した。これは老体に堪える。
帰宅すると、疲れた体を一旦ソファに沈める。長年連れ添った革張りのソファは、ぎしぃと音を立てて私を包み込んだ。
そのままの体勢でオープンキッチンの方を振り向くと、
『ご飯、できてるよ』
と声が聞こえたような気がした。
これは気のせいだ。彼女はもういない。
二人の子どもは数年前に自立して家を出て行った。
家には私ただ一人。
この『気のせい』ももう何度目かわからない。四季折々の食材を用いて彼女が話しかけてくれるので、そこから「ああ、あの日のことか」と過去を思い返せるのは幸せだった。
リビングの隅に置いた仏間に目をやる。
『気のせい』を感じる季節になると、いつも君のことが恋しくなるよ。
私は心の中で、彼女にそう話しかけた。
【大事にしたい】
漫然とつけたテレビが、今朝起きた事件の報道を流している。
バラバラの遺体がポリ袋に詰め込まれて見つかったらしい。いわゆる猟奇的な殺人事件だ。見つかったのは胴体と四肢。四肢はさらに切断され、細かく分けられていたとのことだ。
「これ、どれくらいの労力がいるんだろうな」
私は彼女に問いかける。
だってそうだろう。人間の体を一回刻むのに、どれくらいの時間を費やすのか想像がつかなかった。
「生きながら切られたらどんなに痛いんだろうね」
私は続け様に質問を投げかける。
彼女から返答はない。
首から上だけの彼女は、昨夜不審な男と出くわした時に買い取った。危うく自分が殺されそうになったが、隠蔽工作を手伝ってやると言うと、存外素直に応じてくれた。
私は男に、遺体を切り刻み、指紋を消すことを提案した。頭はこちらが貰うから、遺体の身元が割れるまで時間を稼げるだろう、とも伝えた。
男は私に従い、まずは首を鋸でギコギコと切り始めた。刃が通らないのか、時折骨か何かに引っかかりギシと嫌な音が聞こえたが、何度も引いていると首はゴロンと胴体から切り離された。鮮血が飛沫を上げ、流血がてらてらと輝いていたのを鮮明に覚えている。
あの時彼女が生きていたかどうか、その後あの男がどのようにして遺体を処理したか、私は何も知らない。
私はその首を自宅へ持ち帰り、今日もこうして彼女に話しかけている。薄白く滑らかな肌、長く透き通るようなロングヘア、閉じたままの瞼。どれも魅力的だった。
彼女は、いずれ腐ってしまうとわかりきっているからこそ今を大事にしたいと思わせる、一種の儚さを持っていた。
【時間よ止まれ】
ある日の山中、少年はいたずらに蛇を殺した。
何か理由があったわけではない。蛇に何かされたわけでもなかった。ただただ、少年の暇を潰すためだけに蛇は殺された。
もいだ頭をぼうっと眺めていると、眼前に広がった茂みの中からガサガサと音がした。
また蛇だろうか、と少年は訝しむ。
茂みの音はだんだんとこちらに近づいている。ふと、茂みの中から視線を感じ目を凝らす。
人間についた二つの目らしきものが、薄暗い茂みの中からこちらを凝視していた。
「少年、力が欲しいか」
目はしゃがれた声で問いかける。少年は恐怖に口をパクパクとさせるが、目が言う「力」に少なからず惹かれていたのも事実だ。
「なんの、力ですか」
「時を止める力だよ」
「くれるんですか」
「もちろん」
少年は二つ返事でその力を受け入れた。時を止める、だなんてフィクションでしか成立しない力だ。
目は嬉しそうに目を細めて話を続ける。
「ただし忠告だ。この力は一度きりしか使えないんだ。使い所はようく考えるんだよ」
少年はこくりと頷く。一度きり、という言葉に落胆はしたが、元より使えるはずもなかった『時を止める力』を手に入れたこと自体が少年の胸を高鳴らせた。
ある日、少年は信号を待っていた。
力を手に入れてから早数ヶ月が過ぎていた。
眼前に光るのは赤信号だ。今日は新作のゲームソフトが発売される。いち早く家に帰りたくてしょうがなかった。
そわそわして、左右を確認する。右方向、遠くに車の陰が見えた。走ればまだ間に合いそうな距離。
少年は赤信号を走った。突如、左からプウウウと耳を切り裂くようなクラクションが響き渡る。音の方向を振り向くと、車がすぐ傍まで迫っていた。右側の車に気を取られ、左から新たに来た車に気づかなかったのだ。
足がすくんだ。しかし、少年は決心する。力を使うのは今しかない。不本意だが、ここで撥ねられてしまえば確実に死んでしまう。
少年は胸に祈る。時間よ止まれ、時間よ止まれ。
クラクションが鳴り止んだ。車の排気音も、街を歩けば聞こえる雑踏も全てが鳴り止み、しんと世界を静寂に包み込む。
少年は自分が生き延びたこと、力が本当だったことに興奮し感情を昂ぶらせる。が、それは束の間だった。
少年は左側を向いて車と睨み合う形のまま硬直していた。体の細部まで一寸も動かすことはできないまま、思考だけが止まった世界の中で生きていた。
そこでようやく理解した。時を止める力というのは、少年も含めた全ての時を止めることなんだと。
少年はいつか見た神話の内容を思い出した。それに出てきたウロボロスという蛇は自ら尻尾をくわえており、一つの環状になっていた。それは永遠を象徴とするらしい。
あの日現れた謎の目は蛇の恨みが募ったもので、自分を永遠の中に閉じ込めたのではないか。少年はそんな風に妄想を膨らませたが、今となっては究明することのできない真実だった。
【花畑】
少女は広大な花畑に立っていた。
辺りを見渡せば赤白黄色、橙や淡い紫の花々が整然と咲き並んでいる。花々は色ごとに区画され寸分違わず列を作っている。まるで色違いの虹のようなそれを見て、少女は思わず感嘆の声を漏らした。
花畑は果てしなく続いており、少し離れた丘の斜面にも同じように咲き誇っていた。その花々の一部、白色をした花群れの中にポツンと赤い模様が見えた。距離があるからか何かは判然としないが、少女はそれが気になり足を進める。
丘の花群れに辿り着くまで周りには様々な花が道を作っていたが、少女は横目でそれを見るだけで真っ直ぐ目的地を目指す。徐々に距離が縮まると、赤い模様が一つの文字だということに気づいた。
あれは明らかに『大』という字だ。少女は家族と旅行にいったとき、似たようなものを見たことがあった。最もそれは『大』という字を炎で象っていたが。
少女は歩みを止める。目の前には白いコスモスの中に、赤のコスモスが『大』という字を浮かび上がらせていた。
遠くから見ると不思議に思ったが、近づいてみれば大したものではなかった。ただそこに字があるだけだ。
少女は期待はずれに感じて元来た道を戻ろうとする。後ろを振り返ろうとしたそのとき、ふと目下に気になるものが止まった。
『大』でいうところの払いの部分、土の中から紐のようなものがちょろちょろと顔を出していた。
少女は屈んでその紐をよく観察する。まだ引っ張れそうな余裕が紐にはあったため、ぐいと引いてみる。
紐はするすると土の中から姿を表し、その先に何かそれなりの質量を持つものが繋がっていることを少女の掌に振動として伝えた。
目に見えない土の底にある何かに、少女は少なからず疑念と恐怖を抱いた。しかし、好奇心がそれを押さえつける。
少女はさらに力を込めて紐をぐいぐいと引いてみた。
紐につながった何かが土を盛り上げて姿を表そうともがいている。紐をもう一度引くと、何かは土を飛沫のように舞い上げて少女の足元に転がり落ちた。
靴だった。どれくらいの年月を土の中で過ごしたのか想像ができないほど、黒く汚れている。少女でも見たことがあるような若者向けのメーカーだった。
少女はまたしても落胆する。もっと何か自慢できるような発見があると思っていたが、やはり無駄足だったようだ。
少女は転がった一足の靴を花群れの中に置き、花畑を後にした。
赤のコスモスの下には靴が埋まっている。
少女はこれを微塵も疑問に思うことはなかった。