【別れ際に】
私は見知らぬ土地に立っていた。
頭上には多くの大木から張り巡らされた無数の枝葉が生い茂る。空すら拝めぬ暗闇のカーテンは、鬱々とした空気を周囲に漂わせていた。
眼前にも同様に暗闇が続いているが、そこに一人、白装束の人間が立っていた。顔を手で覆い隠しているため誰かは判然としない。長い髪を後ろに垂らしているのでおそらく女性だろう。
女は顔を隠しながら震えた声で話しかけてきた。
「私を見ないでくださいな」
聞いたことのある声だ。ぼんやりと声の主を思い浮かべるが、顔にモヤがかかっておりどうにも思い出すことはできない。
女は時折しゃくり上げながら、尚も話しかけてくる。
「あなたがこちらに来るのはまだ早いの。後ろに灯りが見えるでしょう。その灯りを目指して早くここから出て行って」
背面を見据えると、確かに彼女が言った通り小さな灯りが見えた。
正直、言っている意味はよくわからなかった。しかし、彼女の言った通りにしなければ、何か取り返しのつかないことが起こるのではないか、という恐怖が内から湧き出ていた。
私は彼女に礼をいい、背面の灯りに向かって歩みを進める。灯りは坂の上からこちらを照らすように光を放っていた。
坂を登る前に、もう一度助言をくれた彼女に礼を言おうと振り返る。
そこで私は見てしまったのだ。露わになった彼女の顔を。
彼女の顔は、元々そこに張り付いていたであろう皮膚が腐り落ち見るに堪えないものだった。眼球の一つは完全に外れ眼窩に深淵が広がっている。もう一方は視神経の一つでなんとか繋がっているのか、ぷらんぷらんと宙に揺れていた。
「……だから、言ったのに」
その一言を皮切りに、私は全力で坂を駆け上がる。
私は彼女のことをよく知っていたし、この話にも聞き覚えがあった。
別れ際の彼女の顔も表情も、あの悲しげな声色も、私は全てひっくるめて一生涯忘れることはできないだろう。
9/28/2023, 4:56:30 PM