ハイル

Open App

【形の無いもの】

 形の無い者に目をつけられてから、私はひたすら山道を登っていた。人の往来により作られた獣道をハッハッと過呼吸になりながら駆け上がる。
 獣道は綺麗に舗装されているとは言い難く、時折地上に張り巡らされた木の根に足をすくわれ転けそうになる。なんとか体勢を保ち、追手が迫っていないか後ろ目に確認した。
 形の無い者は私の背後から二メートルほど間隔を置いて追ってきていた。形は無いが、空気の歪のようなものがぼんやりと浮かんで見える。私が通った道がその奥に透けて見えるので、"形は無いがそこにいる"ことは確かだ。
 それは形こそ無かったが「オォォ……オォォ……」と鳴き声のような音をあげていた。人間の声だ。理性をなくした人間の鳴き声はああいった感じなのだろう。
 その声からは、怨嗟、嫉妬、憐憫、憤怒などといった人間の内部に黒く渦巻く負の感情が混ざり合っていることが窺える。少なくとも私はそう感じた。あの声を聞くと、どうしても耳を塞ぎたくなるのだ。

 負の感情の集合体は、行き場を探しているのだろうか。

 ふと、私は背後に形の無い者を感じながらそう考えた。
 人が抱えきれなくなった感情の集合体があれならば、それは本来あった場所――人間の内部に帰ろうとしているのではなかろうか。
 だからといって、自分がその受け皿になり正気を保てる自信は微塵もなかった。自分一人の感情の起伏ですら身が張り裂けそうになるのに、他人が抱える負の感情を請け負うなんて。それは、この世で考え得る中でも非常に過酷な拷問ではなかろうか。
 本来であれば、負の感情は適切に発散され、浄化していくものなのだろう。しかし、それを誤れば背後に迫る集合体のように、他者に理不尽にぶつかる暴走した感情と成りかねない。
 私は依然「オォォ……」と悲痛な鳴き声を上げる形の無い者から逃げ惑う他なかった。

9/24/2023, 3:17:50 PM