『手のひらの贈り物』
手を繋ごう。
君はあの時そう言って、僕の手を握った。それで、僕の手を引っ張りながら走って、太陽の光が眩しくて僕は目を瞑っちゃった。陽の光が暖かくて。特に、君に握られている手が。指先の血管から、温もりが身体中に巡り出して、呼吸をするたび、心臓が胸を叩くたび、僕は人間になっていく。浄化されていく。僕は、僕はここに居てもいいと、君の手から、君の温もりから肯定されてく。
この手を、離したくない。この手を離したら、また醜い泥になってしまうから。だから、君の手が欲しい。
『心の片隅で』
くすんだ色の木の扉を開けると、どうでもいい思い出ばかりが転がった、僕の部屋。足の踏み場もないほどに、学校の、教室ほどの大きさの部屋を埋め尽くしている。
「これを全部捨てて欲しいです。そう、全部です。塵ひとつ残さずに失くしてほしいです。」
僕は隣に立つ人物に向かって言う。この人はおそらく清掃員だろう。きっと、僕の思い出を優しく殺してくれる人だ。清掃員は薄暗いその部屋に入り、しゃがんで細かな思い出を漁る。僕は、そこから離れて、遠くに行った。
背後からビニールの音が聞こえるたびに、心が軽くなる。どうでもいい思い出が消えていく。自我が薄れて、綺麗になっていく。汚れた僕は、もういない。やがて大きな音も聞こえてくる。いわゆる大事な思い出なのだろう。自己の材料となったもの。心に風が通る感覚までしてくる。恐らく、もう数えるほどしか、残っていない。なんだか、途端に寂しくなってくる。あのときは“全部捨てて欲しい”なんて、言ってしまったが、思い返せば残しておきたい思い出が、水底から這い上がる気泡のように、希望のように、次々と現れる。僕は振り向いた。そして走った。この何もない空間をただ走って、疲れが溜まって今すぐに倒れ込んで寝たくなる。でも、全部を失ってしまった僕は、誰からも愛されない気がして。誰かから愛されたくて、自分を見直して、全部が塵で、全部捨てたくなって。でもそんなものは虚妄だった。捨てたくない、何一つ手放したくない。僕の、僕だけの思い出だ。痛くても、苦しくても惨めでも不恰好でも、なぜだか、認めてやりたい。
『雪の静寂』
目を開けると、そこには大きな硝子の壁があった。水族館にあるような、壁一面の硝子。その向こうでは雪が降っていた。世界の彩度が低くなっていて、とても静か。この世に私しかないような気もしてくる。
体が痛い。見れば床の上で寝ていたようだ。体を起こし、胡座で伸びをする。背骨や腕の骨がぽきぽきと疲れを吐き出す。私はため息を吐いて部屋を見渡す。ここはどこだろうか。全く知らない部屋だ。外の景色は、どこか見覚えのある、五メートル四方程度の庭。雪が積もって緑は眠っているようだ。部屋には何もなく、もし出ることができなければ死んでしまうだろう。やりたいこともない人生だったから、平凡に死ぬよりはいくらか面白い。だからそこまで絶望はない。
そうだな、もう一度寝てしまおう。どうせなにもすることがないのだ。そうだ、雪を眺めよう。しんしんと降り積もる雪を私は歓迎しよう。そして共に眠ろう。
静かな世界におやすみ、と囁いた。それがこの世界で初めての音だった。
『君が見た夢』
淡い春の窓下、君の夢を見た。もう何年も会っていない君と出かける夢。
夢の中ではね、君と距離はあんまり感じなくて、空白の中にぽつんと浮かぶかき氷屋さんに行ったんだ。僕と君で抹茶ソースのかかった大きいかき氷を分けっこして食べたの。あ、そういえば店員さんの顔がKくんに似てたな。あの、小中同じだったあいつだよ。夢の中だと気づかなかったけど、今気づいた。変な感じー
そうそう、気づいたらかき氷は食べ終わってて。味は全然覚えてないのに満足感があってさ、そのあとは何したっけ。あれ、覚えてないな…あれ、君が出てこなかった。そうか、かき氷は君自身のことだったのかな。夢の中でのメタファーというか、かき氷を食べ終わったから、君が消えちゃったみたいな。え?違う?なんで君、が、そういえばかき氷、Kくんに似て、味は覚えてないな。
そう、断片的な記憶だけを繋いだら、こんな感じ。上手くできてるかな?そう、夢ってことにしとくの。そうしたら罪は軽くなるかな。大丈夫、君は悪くないよ。それにもう、君は君の、罪を償ったじゃないか。じゃあそろそろ行ってくるね。ちゃんと僕の勇姿見ててよね!元演劇部の底力見せてやる!
『星になる』
あなたは弧を描いて
わたしはぽつんとそこに居て
ただ、ただ一点を見つめていた
それが光なのか、闇なのか
はたまた空白なのかは理解し得ない
あなたはその視界に入ってきて
右から左へ
通り抜ける
それは風のよう
流れ星のよう
虚無をかき消す聖歌でもあって
わたしの楽しみだった
あなたはいつも
キラキラとしていて
わたしを照らしてくれる
あなたの輪郭は光にぼやけていて
曖昧であったけど
わたしはそれを星と呼びたかった
星に、なりたかった。