先輩と後輩。
へらず口憎まれ口は変わらずにあれど、互いに尊重し合っている関係。
今もそう。
恋人というにはまだ青くて、友人と呼ぶには熟れた時間。
かち合った視線が間を置かずにからみ合うようになって。
『澄んだ瞳』からじわりじわりと欲が滲みだして、とろりととけ始めたあたりが食べごろの合図。
「おいしくたべてね」
なんて不敵に笑ってみせるその虚勢もただのスパイス。
両手におさまる距離の贅沢さに今も眩暈を起こすほど、慣れちゃいない。
ぐらりぐらり、こちらの欲が溢れて。
いくら愛を告げても枯れやしない。
「こちらこそ、おいしくたべてね」
ふはりと笑って額を合わせて、いただきます。
からりと開けた、窓の向こう。
日が暮れてきたというのもあるが、確かに空はだんだんと暗くなってきたと思う。
生暖かい風に混ざる、濡れた土とアスファルトの匂い。
ああ、雨が降る。
雨『空を見上げて心に浮かんだこと』がまず離れて暮らす、恋人のこと。
嫌いではないと言っていたが、どうしたって髪はふわふわと広がるし、頭痛がするのだと言っていた。
今はどうだろうか。
今頃あの子が住むところにも同じように雨が降り出しているのだろうか。
たとえ、近くにいたとしても器用に不調を隠してしまうから、気付くのに遅れてしまうしれない。
それでも気が紛れるのなら。
頭を撫でて、他愛のない話をいくらでもするのに。
雨足がすこしだけ緩んだ、空の向こう。
「あ」
ふたえに並んだ虹を愛しいあの子へ送る。
こっちは晴れたから、そっちも晴れるぞ、と。
ぱつぱつとビニール傘に雨打つ音が暗い夜道に響く。
ただ降り注ぐ雨とは違って、遮って鳴るものだから、余計に耳障りで。
ああ、ほら聞こえない。
隣合って歩いていて、本来なら手だって触れ合える距離なのに。
透明なのに二枚越しではその表情もくぐもってよく見えない。
雨が邪魔だ。傘が邪魔だ。
足元に広がる水たまりも大きく淀んで、靴も裾にも蝕んでいく。
「なあ、早いって」
ぱしりと掴まれた手首。
引かれるように半身ふり向けば、傘を閉じてこちらを伺う彼。
急に足を速めた僕に、その鳶色の双眸だけでなく、形の良い眉も唇にも怒りはない。
ただ、心配と、それから。
「雨、こっから強くなるらしいからさ」
早く帰ろう?
するりと僕の傘に入り込むと『手を取り合って』ひとつに握り込まれる。
思いの外、冷えて固くなっていた手をゆっくりほどいてくれる優しいぬくもり。
こうしていとも簡単に、捻くれた僕の気持ちをそっと汲み取ってくれる、僕には勿体無い、優しいひと。
あなたは何も悪くないのに。
僕に捕まってしまった、かわいそうなひと。
すれ違う人混みの多さに圧倒されながら、それでも見失うことのない彼に、彼だけに見つめられる優越感。
往来する雑多の中ですら聞こえる、歓喜に色めく声に劣等感に似た負い目が浮ついた心を攫っていく。
彼の言葉を、双眸を、与えられるてのひらの熱を疑うことはないけれど、それでも好意に応えられる自信がなくて。
一時の熱だとどこかで線引きをしていた。
「なあ、今なに考えてる?」
「……っ」
向かい合うように座ったカフェで見つめ合った榛色は獲物を捉えたように逃さない。
見透かされている、と感じていてもその眸は急かすことなく、こちらが言葉にするのを待っていた。
時に熱を帯びたように揺らめき、時には晴れの海のように穏やかに凪いでいる。
以前は知り得なかった深みをみせる、眦にすら越を得て。
はふ、と知らず詰めていた息を吐く。
「すこし、人混みに酔ったようで」
「うん」
たった2年しか違わない筈なのにずいぶんと大人な余裕を見せる虚勢だと笑ったけれど。
「……はやく、ふたりきりになりたいなって」
ぱちぱちと素早く瞬いて、ふいに逸らされる。
口元を覆って隠す手に、思いの外、彼の意表を突いたのだと知って、まだ知らない色があったと素直に笑んだ。
『優越感、劣等感』に、綯い交ぜにされる。
『これまでずっと』嫌われないように過ごしてきた。
狭い学校生活という枠の中ですら、人当たり良く、隔たりを作らないように。
博愛主義者なんて言われようと、拒絶されるのだけは嫌だった。
そうしている立ち回っているうちに人の機微に聡くなっていって、所謂、空気を読めることが得意になって。
そうした、慢心からか。
「あなたのこと、きらいです」
心を開いてくれていると自負していた相手からの明確な拒絶。
踏み込みすぎた。
足元が抜けて、指先から冷えていく。
磔にされたように動けなくて、それでも。
笑顔で受け答え出来ただろうか。
その場を去る時、おかしくなかっただろうか。
これ以上嫌われないように、上手く、取り繕えただろうか。
「……すき、だったんだな」
いつになく傷付いた自分自身に、知らずに好意を抱いていたことに気付いて。
今、1番嫌われたくなかったのはあの子だったのだと知った。