からりと開けた、窓の向こう。
日が暮れてきたというのもあるが、確かに空はだんだんと暗くなってきたと思う。
生暖かい風に混ざる、濡れた土とアスファルトの匂い。
ああ、雨が降る。
雨『空を見上げて心に浮かんだこと』がまず離れて暮らす、恋人のこと。
嫌いではないと言っていたが、どうしたって髪はふわふわと広がるし、頭痛がするのだと言っていた。
今はどうだろうか。
今頃あの子が住むところにも同じように雨が降り出しているのだろうか。
たとえ、近くにいたとしても器用に不調を隠してしまうから、気付くのに遅れてしまうしれない。
それでも気が紛れるのなら。
頭を撫でて、他愛のない話をいくらでもするのに。
雨足がすこしだけ緩んだ、空の向こう。
「あ」
ふたえに並んだ虹を愛しいあの子へ送る。
こっちは晴れたから、そっちも晴れるぞ、と。
ぱつぱつとビニール傘に雨打つ音が暗い夜道に響く。
ただ降り注ぐ雨とは違って、遮って鳴るものだから、余計に耳障りで。
ああ、ほら聞こえない。
隣合って歩いていて、本来なら手だって触れ合える距離なのに。
透明なのに二枚越しではその表情もくぐもってよく見えない。
雨が邪魔だ。傘が邪魔だ。
足元に広がる水たまりも大きく淀んで、靴も裾にも蝕んでいく。
「なあ、早いって」
ぱしりと掴まれた手首。
引かれるように半身ふり向けば、傘を閉じてこちらを伺う彼。
急に足を速めた僕に、その鳶色の双眸だけでなく、形の良い眉も唇にも怒りはない。
ただ、心配と、それから。
「雨、こっから強くなるらしいからさ」
早く帰ろう?
するりと僕の傘に入り込むと『手を取り合って』ひとつに握り込まれる。
思いの外、冷えて固くなっていた手をゆっくりほどいてくれる優しいぬくもり。
こうしていとも簡単に、捻くれた僕の気持ちをそっと汲み取ってくれる、僕には勿体無い、優しいひと。
あなたは何も悪くないのに。
僕に捕まってしまった、かわいそうなひと。
すれ違う人混みの多さに圧倒されながら、それでも見失うことのない彼に、彼だけに見つめられる優越感。
往来する雑多の中ですら聞こえる、歓喜に色めく声に劣等感に似た負い目が浮ついた心を攫っていく。
彼の言葉を、双眸を、与えられるてのひらの熱を疑うことはないけれど、それでも好意に応えられる自信がなくて。
一時の熱だとどこかで線引きをしていた。
「なあ、今なに考えてる?」
「……っ」
向かい合うように座ったカフェで見つめ合った榛色は獲物を捉えたように逃さない。
見透かされている、と感じていてもその眸は急かすことなく、こちらが言葉にするのを待っていた。
時に熱を帯びたように揺らめき、時には晴れの海のように穏やかに凪いでいる。
以前は知り得なかった深みをみせる、眦にすら越を得て。
はふ、と知らず詰めていた息を吐く。
「すこし、人混みに酔ったようで」
「うん」
たった2年しか違わない筈なのにずいぶんと大人な余裕を見せる虚勢だと笑ったけれど。
「……はやく、ふたりきりになりたいなって」
ぱちぱちと素早く瞬いて、ふいに逸らされる。
口元を覆って隠す手に、思いの外、彼の意表を突いたのだと知って、まだ知らない色があったと素直に笑んだ。
『優越感、劣等感』に、綯い交ぜにされる。
『これまでずっと』嫌われないように過ごしてきた。
狭い学校生活という枠の中ですら、人当たり良く、隔たりを作らないように。
博愛主義者なんて言われようと、拒絶されるのだけは嫌だった。
そうしている立ち回っているうちに人の機微に聡くなっていって、所謂、空気を読めることが得意になって。
そうした、慢心からか。
「あなたのこと、きらいです」
心を開いてくれていると自負していた相手からの明確な拒絶。
踏み込みすぎた。
足元が抜けて、指先から冷えていく。
磔にされたように動けなくて、それでも。
笑顔で受け答え出来ただろうか。
その場を去る時、おかしくなかっただろうか。
これ以上嫌われないように、上手く、取り繕えただろうか。
「……すき、だったんだな」
いつになく傷付いた自分自身に、知らずに好意を抱いていたことに気付いて。
今、1番嫌われたくなかったのはあの子だったのだと知った。
週半ば。
帰宅後、寝る前までのルーティンを終わらせる『1件のLINE』は《こんばんは》、と告げる黒猫のスタンプ。
まさかの相手過ぎて、返信に迷うが送られてきたのはただそれだけ。
どういうつもりなのか分からずに、とりあえず同じように《こんばんは》とデフォルトのスタンプで返してみる。
既読はすぐについて、そしてまたもや、間。
スマホを投げ出し、途中だったストレッチに戻る。
と、またぽこん、と通知音。
《おきてる?》
最初のスタンプからずいぶんと時間を空けてきた割には簡潔で。意味が分からない。
《きょう》
《すまほデビュー》
《した》
こんな簡単な一文の間に寝る準備まで終わってしまって。
やっと繋がった文章で内容を知ることが出来たのだが、最初のスタンプから、かれこれ30分。いつまで続くのだろう。
《もしもし》
《うぉっあ?!》
しびれを切らして通話に切り替えると、あまりの大きさに耳を遠ざけてしまうほど普段聞くことのない慌てふためく声がした。
《……うるさいです》
《うわ、ごめん!今日変えたばっかで、まだ慣れてなくてさ》
初めてスタンプ使ったと照れた声にこちらまで上ずりそうになるのを押さえて、ソウデスカ、と返して。
続かない会話に、もっと上手い返しがあったのではなかろうかと思案して、いや別に話を広げなくてもと思い直すほどまた長い沈黙。
普段でもメールでもあんなに饒舌に話すのに、どうして今こんなにも静かなのだろう。
つい、憎まれ口を叩きそうになって、通話を切ろうと持ち直せば黒い影が画面いっぱいに広がっている。
よくよく耳をすませば、あーだのうーだのと聞こえてきて。
ビデオ通話に切り替わっているのすら気付かずに言葉を探しているのだと知って、なんでも器用に熟す彼の不器用な一面に思わず笑ってしまった。
こちらはOFFのままなので、急に笑い出した僕に困惑しているのだろう。
その姿がなんだかかわいらしく見えて、先程のメッセージの合間の沈黙に苛ついてしまったのなんてもうとうに忘れてしまった。
《なんだよ、すぐに慣れてやるからな!》
《……ふ、ふふ、まって、ます》
覚えてろよ、なんて捨て台詞も相まって、僕はとうとう声を上げてしまった。