hikari

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10/28/2024, 12:40:00 PM

暗がりの中で 

私は「傷ついた分だけ優しくなれるよ」という言葉を聞くと、複雑な気持ちになる。というか、私はあんまり好きじゃない。 なぜなら、私にとって「傷つく」というのは優しさに繋がるものではなく、ただただ深く、終わりなく傷が増えるようなものだったからだ。

同じような苦しみを持つ人を見れば、心の奥に劣等感が反応して、「自分の方が不幸だ」と張り合おうとしてしまう。そして自分とは違う境遇の人を見れば、その人の不幸を見下し、自分を保とうとする。自分の心が荒れ果てた乾いた土地なのに、一滴の水すら吸収できない、そんな枯渇した状態なのが分かる。たとえ一粒の涙がこぼれたところで、乾いた心には届かないのだ。

私の中には余裕もなかった。もし空腹のときに目の前に食べ物があれば、きっと他人に分ける余裕もなく奪ってしまうだろう。そして、残るのは罪悪感だけだった。くだらない虚栄心や嘘、陰口といった些細な行動が、じりじりと自分の心を蝕んでいく。転がる石は止まり方がわからない。私は「傷ついた分だけ優しくなれる」どころか、「もっと傷ついてきたのに!」と周囲に主張して、また他人を傷つけてしまうのだ。

これを言葉にして表現すると、なんだか幼いように感じられて、自己嫌悪や恥ずかしさが湧いてくる。それでも、正直なところ、これが私の中にある感情そのものだ。

それでも、「傷ついた分だけ優しくなれる」という言葉に、どこかで惹かれてしまう。たとえ自分にとっては難しく感じられても、信じていたい気持ちがあるのだ。

私の人生の暗がりといえば、職を失い、病気になり、頼りにしていた人に別れを告げられた時期だった。お金も底をつき、未来が真っ暗に見えていた。何もかもが空虚で、不安すら感じられないほどだった。誰にも何も言わず、ただ死ぬタイミングを考えていた。そんなとき、友人がそばにいてくれた。

その友人は、私よりも多くの死別を経験し、早くに自立していた。彼女自身も望まぬ不条理を背負っていたけれど、それでもそこから滲み出る魅力があった。同年代には持てない深みと余裕が彼女にはあったのだ。そして、彼女が私に「生きていればそれでいいよ」と言ってくれた言葉が、私の心に深く届いた。まるで心臓が身体の奥底に落ちるような感覚だった。

友人は、ただ私の存在を受け入れてくれていた。彼女の傷が、彼女の言葉と佇まいのすべてに滲み出ていた。私はただその存在に感謝しても仕切れなかった。そして、友人が乗り越えてきた痛みが、確かに私を癒してくれた。あの日、私はその友人や同じように痛みを抱えた人に、心から優しくしたいと思った。自分の未熟さを痛感して泣いた。

人生の暗がりの中で、誰もが傷つく。傷つかないほうが良いし、苦労しないならそのほうが良いに決まっている。けれど、望まずに刻まれた傷が、思いもよらない形で他人を救うことがあるのだろうと思う。

「傷ついた分だけ優しくなれる」という言葉を、本当は心の底から言える自分になりたいのかもしれない。まだどこかで反抗してしまう自分がいるけれど、暗がりの中で、あの日の友人のように、私は誰かに静かに寄り添える人でありたいと思うのだ。

2024.10.28 エッセイ-暗がりの中で

10/27/2024, 12:15:59 PM

紅茶の香り 

新宿ルミネの1階に紅茶の専門店がある。
紅茶といえば、ホテルの付属品を全て掻っ攫っては自宅で飲む程度の嗜みしかしらなかった。職場で東京都生まれ東京都育ちの生粋のお坊ちゃまおじ様から、冒頭の紅茶をいただいた。なんとなく仕事の帰りに寄ったところ、5,000円以上という金額に驚愕し、いそいそと自宅で箱を開けた。

紅茶の香り、に限らず、ワインやコーヒーなど飲料に関しての香りの区別は全くわからないタイプの人間だった。そもそも、私の育ちといえば商売人の娘であったのでゆっくりと食べ物を嗜むという感性がなかった。家族は馬車馬のように働き、ワークホリックとはまさにこのことかと学んだ。休んでいる日はなかった。父親からは「自衛隊は5分で食べるんだ」と叩き込まれていた。心の奥底で、お前自衛隊ちゃうやろ、という意見は喉までつかえていたが言うのをやめた。因みに親族に誰も自衛隊はいない。まじでなんだったんだ。

そういったわけで、おしゃれなカフェですら、1分でコーヒーを飲み干し、クッキーをバリバリと3秒ほどで食べ、滞在時間わずか5分で退店するような、人生の何かを欠落した女が出来上がったのだ。

しかし、手元にある紅茶は、ゆらゆらと湯気を漂わせながら優雅な香りを部屋に撒き散らしていた。「まぁそんな焦らんとゆっくりしときや」というエセ関西弁を話すバニラの妖精が私に語りかけているようだ。目の前の紅茶には、こんな私ですら「香りがすごい」という感想が脳に浮かばせるほどの威力を持っていた。さすが、職場のおじ様は東京の駅前の地主であるだけに、感性が研ぎ澄まされている。

香りは、バニラの香りだった。

バニラなんてアイス以外も味わっていいんですか?とくだらないことを考えながら、紅茶に湯を注ぐ。
100度にちゃんと設定しろと職場のおじ様に釘を刺されたので、言われた通りにした。

恐る恐る口元に近づければ、その甘い香りに軽く脳震盪を起こし、意識を戻して紅茶を口に運んだ。
当たり前と言われれば当たり前だが、甘くはなかった。
きちんとしたバニラの香りに、深みのある紅茶の味が口いっぱいに広がった。何度の湯であっても数秒で飲み干す強靭な舌ですら、この紅茶を楽しみたいと主張していた。

そのくらい、味と香りが美味しかった。

口に入れるものはおおよそ栄養補給他ないと考えていた私にとって、この紅茶の一杯は人生の革命だ。
香りを楽しむとはこういうことなんやで、と、バニラの妖精は私に語りかけるのだった。

折角このような紅茶をいただいたなら、
お洒落な容器でも買おうかしら、いや、紅茶似合うお菓子を小田急デパ地下で買ってみようかしら…なんてことが脳内に浮かんできた。間違いなく今まで働いていなかった脳の部分が活発に動き出している。あれ、なんか、私ワクワクしてる?下手な自己啓発本より人生に良いんじゃないかこれ。

私は1杯の紅茶をなるべく時間をかけて味わった。
長年咀嚼をしなかった罰か、それでも数分であったものの、間違いなく時間は伸びた。

別に食事は長けりゃいいってもんでもないと思うが、
私はこの紅茶の魔法に少しでも長く陶酔していたかった。

10/26/2024, 3:06:38 PM

愛言葉

「おにぎりあたためますか?」

お、と思った。久々に聞いた。
東京から地元北海道にもどり、小腹が空いたからコンビニでおにぎりを買った。この言葉。久々に聞くと戸惑うものだ。

学生の頃には日常的に聞き慣れていたが、内地では、某テレビ番組の名前として有名だと知り、なんだか違和感があったものだ。しかし今、改めて店員さんから直接言われると、いつの間にか自分の中でその言葉がテレビ番組名としての印象に置き換わってしまっていたことに気づいた。

「あ、お願いします。」

店員のおじさんは無表情かつ手慣れた様子でおにぎりをレンジに入れた。おじさんにとっては日常の一部、あるいはマニュアル通りのルーティンなのかもしれない。

けれども、この何気ないやりとりに、心がじんわりと温まるような感覚が広がってくる。ビジネスライクなやり取りの中に、ふと人とのつながりを感じさせる。

「愛言葉」なるものがどういったものかは知らないが、
おにぎり温めるかどうか聞くこの質問を、愛言葉の類のひとつと言われたら私は納得してしまう。

温まったおにぎりをレジ袋には入れず、手渡しでもらった。

単にレジ袋代をケチっただけだったのに、
コンビニのおじさんが温めてくれたおにぎりは、
私の冷えた指先をじんわりと温めていた。

10/25/2024, 5:47:08 PM

友達

大学に入って私は初めて友達ができた。

高校まではそれなりに連む同級生はいたが、友達かと言われると微妙だった。

友達の基準はなんだかわからないし、
明文化しているわけではない。

だが、大学に入ってから確実に私は友達ができたという感覚があった。

こう言うのは個人の感覚に任されるものだが、
安心感が違う、というのが一番大きい。
それはその友人自身の器量の大きさもあるが、
それとはまた別に、忙しくて特に連絡しないときであってもひとつの連絡で直ぐに元の関係に戻り、私がおかしなことを言ってもそれを話せる。また、私も、友人がしばらく連絡がなくともいつでもそのタイミングを待てるし、どんな話でも受け入れられる確信がある。

この謎の確信と自信はほぼフィーリングのようなものではないかと思う。実際私と友人は、マンモス大学で苗字が隣で意気投合、その後も健康診断で後ろに並び偶然出会ったと思えば同じ語学クラスという奇跡の連続だった。なんとなく放課後浅草行く?と声をかけてみたら、あまりにも生い立ちが似ていて生き別れの姉妹?と疑うほどだった。

話が戻るが、この安心感は、誰でも出せるものではない。友人に限らず、人間関係を築く一つの要素としてかなり重要だと認識させられた。

昨今では、幼馴染効果が凄まじく、
生まれた地域や共に育った人間との関わりが最重要かのように語られる節があるが、私は真っ向から否定派である。
正直、地元なるものは親が決めた地域でしかない。それよりも、自我を持ち、自分が考えて決めた場所で、出会い、価値観を共有した相手の方がよっぽど深い関係になる。友達の価値基準を年月に置くのは、もっと人生の後半でもよいのではと予測している。

まぁ、たまたま私の人生はそう感じただけで、
幼馴染に奇跡的な出会いをした人もいるかもしれないけど。

この「友達」ひとつとってもさまざまな価値観と論争があり、中でもステレオタイプのようなものは影響力が強く頭を抱える。何事においても、自分はどうであるかが大切なのだと気付かされる。

10/24/2024, 4:08:45 PM

行かないで

母が失踪した。変な話だが、母親の失踪は慣れたものだった。ある日忽然と姿を消し、2.3年後に姿を現す。破天荒な女の人だった。

母は3年前に再び姿を消した。
家には父と兄と私で暮らしている。
お坊ちゃん育ちの昭和生まれの父親と、破天荒な阿波弁を流暢に話す母親はよく喧嘩をした。毎日喧嘩してよく飽きないもんだなと感心するが、お互いがヒートアップすると誰も止められないくらいバイオレンスな結果になる日もあった。お互いの心のキャパシティを超えたところで、母親は嵐の如く去り、現れ、また去っていくのだった。
母にとってこの家庭という小さな箱は窮屈で仕方なかったのだろうか。それとも、まだ経験していない母という生業は想像を絶するものだったのだろうか。
父と母は恋愛結婚であったが、どちらとも何かと闘っているような分かり合えない苦しさを側から感じていた。
母の出身地から遠く離れた嫁ぎ先で母は決して方言を譲らなかった。母と一緒に母の地元に帰った時、なんだか地元の方言を聞いてるとほっとする、と言った安堵の表情が忘れられない。その顔にいつもの眉間の皺はなかった。私は父と母の両者の味方であり、すなわちそれはどちらの味方でもなかった。ただこの家庭において、2人の娘であることだけが繋ぎ止める唯一の概念のような自覚を持っていた。そこにはなんの自我もない、ただ存在しているような欠落した人格と罪悪感があった。

母がいなくなっても平然でいられるのは、
そのうち帰ってくるだろうという過去の記録から推測するものと、定期的に送られてくるクレジットカードの明細があったからだ。生きているなら、それでよかった。
小さな頃は母がいなくなるのがとても寂しくて、1人泣く日もあったが、いつしか子供じみていて泣くのをやめた。母がいなくても私は泣かなくなった。だけど、いつでも母がいなくなると寂しさだけは消えなかった。

母が失踪してから、私は中学を卒業した。
高校に上がって、私は少しずつ大人になっていった。
育ちざかりで肥えた体はだんだんと平均値になり、
人並みに恋をして、人並みに勉強した。
母が知らない数年間の間で私は随分と変わった。
毎朝早起きをしてお弁当を作り、授業を受け、部活をして、帰宅する。そんな日々を淡々と送り、高校3年生の11月に母は何食わぬ顔で帰ってきた。

正確に言うと、帰ってきていた。私が学校から帰宅したところで、先に家にいたのである。

「あ、おかえり」

母が言った。
突然のことで驚いたが、ただいまと返した。

「お母さん、帰ってたんだ。久しぶり」

今まで何してたの?と純粋に聞こうと思ったところでやめた。もし聞きたくない内容だったら嫌だったからだ。母と会うのは3年ぶりだったがとりわけ気まずくもなかった。これが親子か。それか私の心が死んでいるのか。

キッチンテーブルで地方の情報雑誌を見ていた母が、不意に言った。

「お母さん、大学いっとったんよ」
「え、大学?どこの?」
「奈良の」
「へー。奈良いたんだ」

大学?!お前行くの2回目やろ!と言う予想外の話の展開に驚く気持ちと、大学行ってたのかよかった…という謎の安堵感に包まれた。資格取得のために大学に行ったそうだった。60代母の清らかなキャンパスライフを聴きながら、私は白湯を啜った。なんとなく恋愛の話が出なくてよかったなと思った。まぁ出るわけないか。ひとしきり話して満足した後、今度は私のターンになった。

「あんたは何しとったん」
「いや、なんも、普通」

自分の話をするのは昔から苦手なので、母の話に切り替えたい。

「それよりさぁ、お母さん資格とって何するの。1人で暮らしてくの?」
「いやぁ、まだ就職先とかは決まっとらんのやけどな、まぁいずれ1人になってもやっていける自信が欲しかったんよ。そうなったら、あんたら2人を連れてどこでも行けるけんなぁ」

連れてけるって、私来年大学いくよ。
東京行って一人暮らしするし。お母さんがいない間、私結構大人になっちゃったんだけど。

「わたし来年から東京いくよ。大学。地元にはもう帰らないと思う」
「ほうなんけ。そら、さみしいなぁ」

少し沈黙が流れた。寂しいなんて、私は母に言ったことがなかったのに、母は平然と言うのであった。
私が成長すれば、母も歳をとっていた。知らぬ間に母が60代になり、知らぬ間に時が過ぎたことを実感するのは苦しかった。私の人生はこれからのはずなのに、始まってすらいないような、すぐ終わりがあるような不安感が常に心に付き纏っていた。

母が帰ってきたと思ったら、今度は消えて無くなりそうな儚さを感じた。母のシワの増えた手をみると、私は悲しくなった。その経過をアハ体験でもできればよかったのに。「さみしい」の4文字が締め付ける心の苦しさを、母はきっと知らないのだと思った。母が玄関から去っていくたびに、私の心臓は細い糸できつくぎゅうっと締め付けられて、そこから上昇した感情がいつも涙となって昇華していた。

「私は、この家来年でていくけど、お兄ちゃんは家にいるしさ」
「うん」
「私は正月は帰るし」
「うん」
「お父さんも最近丸くなったしさ」
「うん」
「私が帰る時はさ、お母さんもおってよ家に」
「…うん」

母の罪悪感と、私の罪悪感。
どちらも、やるべきことをやっていない罪悪感。
母の業と娘の業。私たちは明らかに足りていない。
だから、私にとっての我儘は今の会話が限界だった。

オレンジ色のライトが私たちを包み込んでいる。

母がそこにいる事実だけが、私の心を溶かしていた。

2024.10.24 行かないで

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