夢を描け
栗色の髪をした、白いファーのついたコートを着た女がスマホを見ながら話している。ネイルはない。
彼女は当たり前のように、私のレジュメをパシャリ、パシャリと撮っている。
話の内容は、最近彼氏がどうとかこうとか。12月にもなって、未だに自分の故郷の訛りが消えないのはわざとかどうなのか。こんな些細なことにイライラしている態度を我慢できずに出してしまう私の方が、何倍も幼かった。「まぁかわいいし、いいか」という、よくわからない納得のもと、空を見上げる。
そういうとき、こんなことを思い出す。
顔がいい人は性格もいい、というのは、人との関わりを限定されている学生時代によくあるものだ、と知人が言っていた。自分の欠点を補いたいから、美しいものに憧れて、勝手にその人は性格も良いのだ、と思いたくなってしまうらしい。その話を聞いた時、こんなことを思い出した。普段はかなりストレートに物をいう同級生の男が、「あの子は美人だから性格もいいな」と言っていたのを聞いたことがある。デリカシーのない人間の言葉は、時に本質や真実を語られているかのように錯覚するのは、強い言葉に弱い自分が支配されるからだろうか。その男の言葉を、適当に同意したのちに、女子トイレでその「美人な女」がいた。その女と、その女を取り囲む女たちの視点が向けられており、そこには一つのスマホがあった。ついでに声をかけられた私は、中を覗いた。そこには、同じクラスメイトの女子の「そういう動画」が、あった。生々しかったので、一瞬で脳裏に焼きついた。「美人な女」の手に持ったスマホから流れる「裸の映像」から、「美人な女」の顔を段々と見上げると、やっぱりそこには「爽やかな美しい女の顔」だけが、あった。私は動画から小さく流れる高めの声をききながら、先ほど聞いた「あの子は美人だから性格もいいよな」という言葉を何度も頭の中でリピートしていた。
大学に入って、顕著に感じたことがある。
同年代と話す会話は、ほぼ男か、服か、インスタの他人の関心しかない。あとは悪口。本来であれば、高校時代とかもっと早めに感じることかもしれないが、私は大学からだった。共通の話題も少ない、浅い関係。同じ履修で、みんなこのうっすい上っ面の関係に疲弊しつつ、死ぬほどどうでもいい話題と大して興味のない話題について話す。鯉や金魚が餌を乞うように、呼吸ができずにあくせく必死についていっているのは、私しかいない。みんな当たり前のように悪態をつき、嫌味を言い、褒めながら、それでも「自分」を存在させているのに。私は、いつも何かを「間違っている」ように感じていたのだ。だんだんと自分が染まって、攻撃的になって、家でも呼吸がしづらくなったとき、私はいつも高校時代、「そういう動画」に出ていた同じクラスの女のことを思い出す。彼女は、今、何をしているのだろう。
そういう日々を続けていたら、
私は、私が何を好きで何を好きではないのか、わからなくなっていった。他人を批判する度合いだけ、自分がしたいことを制限されていった。
私が未来に期待し、喜びを感じるものは、
私がかつて否定してきたことばかりだった。
そうだ、私は、どうして。
どうしてあの動画を見たとき、「やめなよ」って、言えなかったんだろう。
どうして、私は。
どうして私は、自分が感じたとことを、あのとき否定しまったのだろう。
途中 つづく
故郷の田舎にしばらく滞在して、都会に戻ると気がつくことがある。
まず、自分の産毛。
あとは、小さな顔のニキビと、
歯の色。
だんだんと細部から広範囲に広がって、
骨盤がどうとか、
ちょっと肩が撫で肩気味だとか、
右だけ筋肉が張ってるとか、
ひとしきり問題点を挙げては、
金で解決できることを考える。
これは、都会がどう、田舎がどう、
とか、そういう話じゃなくて、
わたしにはいつもそういう変化がある。
そういったことをひとしきり丸ごと「なんとかした」ときに、
自分も満足するし、
見た目も変われば人の評価も変わっていく。
そしていつも、ずるりと自覚なしの底なし沼に、
承認欲求と内なる真っ暗闇に引き摺り込まれてゆく。
気になるのは「自分」しかいなくなって、
周りがどうでもよくなり、
それでも、以前の「私」よりきっとマシよと言い聞かせる。維持費に不安と葛藤を抱きながら。
ただそこには、確かに、「幸せ」を感じている。
そして、故郷の田舎に戻ると、
散々否定してきた「私」を求める人がいる。
化粧でもなく、体型でもなく、賢さでもなく、
産まれたんまんまの「私」でないことに、
違和感を持つ人がいる。
そういう人たちと話していると、
私の視点は外側に向いて行く。
お金も時間の使い道も、自分ではなく、周りの人と一緒に使いたいと思うようになる。
だんだん、産毛も体型も気がつかなくなって行く。
ただそれでも、私の心は幸せで満ち溢れている。
誰にもわからない、私の幸せ。
どっちも、私が喜ぶことに間違いはないけれど、
きっとどちらも私の「依存」。
いつか、私がどこにいたって、
変わらない自分になれるといいな。
私が私を保ちながら、
他人を素直な気持ちで愛したいことが、
私はどうしてこんなに難しいんだろう。
今の時代
真面目な風潮と、いうか
悪いものは淘汰されてみんなで改善していこうという
そういう流れの恩恵を受けている部分も感じつつ。
人間だから
間違ったり汚かったり最低で恥ずかしい部分があるはずなのに、
それが直向きに隠されて
袋叩きにあって
再生不可能なのは、あんまり好きじゃない。
失敗が許されないのなら、
ゼロから清廉潔白でなければならない、そんな感じ。
それって、先天的なものだけを特別視してるみたいに感じる。
頭で考えて賢くて論理的で、
というのが良いというわけでもなく、
感情が爆発してときに汚いのもそれはそれで良いし。
というか、本来そっちの方が健康的な感じ。
でもこんな主張ができるのは、
いろんな人が我慢して守ろうとしてる秩序があってこその意見なのかな。
どっちが悪いとかではないけれど、
いろんな証言とか証拠が嫌というほど残って、
日々の積み重ねがいちいち気が張る時代だなと思う。
立場や状況が揃えば、
人の行動なんてたいして変わらないのだから、
人と自分の変化を受け入れるくらいの余裕を
私も持っていたいなと思う今日この頃。
sweet memories
失った 夢だけが 美しく 見えるのは なぜ かしら
すごく好きなフレーズ。
松本隆さん、ファンです。
大好きな人との恋愛は、思い出せるように叶わず終えてもそれはそれでいいかも。
全然話は変わるけど、
好きなフレーズでいうと、
イルカさんのなごり雪の
きみが さった ホームにのこり 落ちては溶ける 雪を見ていた
も、大好きです。
雪国育ちなのもあって情景が浮かびます。
作詞家って、すごいなー。
好きになれない、嫌いになれない
リストカットという行為は、好きじゃない。
理由は、「メンヘラ」ぽいから。
「メンヘラ」を嫌厭するのは、学生時代好きだった人に「メンヘラな女はいやだ」と言われたから。
だけど私は知っている。
この気持ちは同族嫌悪に近いものだと知っている。
リストカットが、五感を刺激することで自分を守る役割を果たすことを知ったのは大人になってからだった。それは、酷く納得する理屈で、腑に落ちた。
私の両腕には、傷がない。それは、傷つけたことがないから。
だけど、私はいつも頭の中の私にナイフを刺している。
悲しいとき、
寂しいとき、
嬉しいとき。
私が私として何かを感じても、すぐにそれは「はずかしい」という感情に変わっていく。そして私のなかにもうひとりの私がぬるりと現れて、躊躇なく、ぐさりぐさりと私を刺すのを想像する。
何もない地面に真っ赤な血がばーっと広がる。そのあとに、まるで花畑のなかに寝転がっているような、
爽快感に満たされていく。
刺されている私は、悲鳴も抵抗も恐怖もなく、それを受け入れている。そうする役割があるように、受け入れている。
「私が死んだ」ことを認識して、「恥」もなくなる。
「安心してください、『わたし』は死にました。もう安心です」
ナレーションのような、聞こえる訳でもなくただそのような通知が私の神経を辿って認識する。
そうして、絵面はひどく物騒なのに、私は極楽浄土で神様から赦しを得たような、安心感に包まれる。
まるで、「よくやった」と大きな神様に抱きしめられているような。悪の根源を消したような、爽快感。
それでも、死んだのは間違いなく「私」なのに。
先ほどまでに恥ずかしくて苦しんでいた自分が居なくなり、笑顔で生きていられる。「私の中のだれか」が、酷く安堵して喜んでいる。
それなのに、いつも、ふとした時に、
今まで何も言わず沈黙していた死体が動き出すように、
涙が止まらなくなる日がある。外が雨なだけで、靴紐が解けただけで、買い忘れたものがあるだけで、理由を見つけられたように泣いてしまう。
わからないようで、私は理由を知っている。
死んだ私が、私を恨んでいる。私が私を蔑ろにしてきたことを恨んでいる。
このままつづけば、きっと、私を刺すナイフの数はどんどん増えていくのだろう。なぜなら、私が私を蔑ろにする度合いだけ、私は私を恨み、世の名に唾を吐いて、悪態をついてしまうから。私が私を嫌いになる度合いだけ、私は人を嫌いになり、人から嫌われていく。
それでも、
こういった自分のことを、
たった4文字の「メンヘラ」で片付けられたくないとおもってしまう。
好きにもなれなければ、嫌いにもなれない。
だけどいつだって、私は私しか見えていない。
だから、そういうところが嫌いなんだってば。
創作 250430