輝き
光が消えてのちに残るのは。
お題と関係なし
ひとりごと。
私の祖父の叔父にあたる人は、プロレタリア文学の作家だった。明治に生きて、苦難の人生の末死んだ。綺麗事だけではない、低賃金労働者の話をいくつも書いていた。ただ、その中で力強く生きている描写は、何度見ても勇気づけられる、そういった感動があった。人の苦難に向き合いながら、その苦難をありのままでいて、苦難のままで終わらせていないことに魅力がある。
少し話がずれるが、
わたしは弱者に寄り添うという言葉が、どうしても好きになれない。
一度とある人と話した時に、「僕は弱者に寄り添う仕事がしたくて」と言われたことがある。
この言葉、嫌悪感と同時にかなり違和感を感じる。立場の強さ弱さはもちろん存在するのはわかっている。が、それをわざわざ恥ずかしげもなく口に出す人は、何を考えているのだろう。弱者という対象は、対象を示しているようで示していない。その人の裏に隠れた、強者と弱者という2択の偏った価値観が透けて見える。社会的な弱者とは、何を指し、何を持って寄り添って救うのか、そういう人には全く見えてこない。
怒りの感情のまま書いてたら、結局何が書きたかったのか忘れた。
まぁ、私も偉そうなこと言えないし、
言葉は違えど行動してることが素晴らしいことだな。
悲しいかな、私には創造性も文章力もないけれど、
今生きてる現実がたとえ暗くても、その中で明るい気持ちでいられるような、視点と強さが言葉に滲み出るようになりたい。何もできない自分は、何にもできないなりに、今日精一杯いきていこう。
自分の何処かと繋がっている心の澱みに触れて、怒って、相手を責めて、自分を責めて、勝手に涙が出てくる。そんな日。
永遠の花束
私の引き出しには、枯れることのない永遠の花束がある。
葉書に描かれた有名な画家による花束の絵。
よく知っている花の種類なのに、
見るだけで心躍るのは一体なぜか。
共鳴するのは、
歴史的な背景か、
思想か、
感性か、
その人の無意識か。
私が何を好きでいるのか、
好きという気持ちはどういうことか、
つまり私が私であることを思い出すための、
永遠の花束。
永遠ときくと、私は恐ろしさの方が勝つ。
対象が人だったら、尚更。
真剣なその人から私は逃げたくなる。
でも、この美しい葉書に閉じ込められた花束の永遠だけは、素直に受け止められる。
わたしが死んだ後、きっとこの葉書は静かに破棄されるだろう。誰も知らない、後世にも受け継がれない、短い永遠と自分との対話が、私の心に温もりを取り戻させる。
羅針盤
LINEのアカウントを消すのは、これで4回目。
中学、高校、大学、元カレに消された時。
1回の不可抗力を除き、あとは全て自分の意思で消した。元彼に消された理由は、無い浮気を疑われてのことだった。無実の証明はなんて難しいのだろう。本当は悲しくなくてはいけないのに、私は消えたラインを見て心底安心していた。
人と繋がっていたいという感情は誰よりも強い。1人が怖くて、寂しい。誰かと笑い合いたいし、誰かと同じ希望を語り合いたい。なのに私はいつも、気づいたら今まで構築した人間関係を全て破壊している。
魔が刺すタイミングはいつも突然やってくる。
身を弁えず傷つく私の心は、いつも私が作り上げている。日々日常のなかでみんな傷ついているのに、私は小さな針一本ちくりと指先に刺さっただけで声も出せずに逃げてゆく。本来私は、最低な性格であっても良いのに、相手を嫌いになっても良いのに、突き放して距離を置くことは悪では無いのに。たった1人の拒絶や、たった一言の悪口で、私は全ての繋がりを絶ってしまう恐怖心で支配される。
病院に行っても、相談をしても、本を読んでも、やり方は書いていない。今抱えている問題と無数に繋がれたヒモには様々な事情が絡まっていて解けない。そこにべっとりと染み付く感情が邪魔をして、それを直視することから逃げ続けている。
私の羅針盤は、方向感覚を失ったままそこに存在している。たったひとりになった時に初めて、傷ついた心が癒えて、狂った部分が治り始めた気になる。そしてまた、大切な人、好きな人、優しい人が目の前に現れて、近づくと、磁石に拒絶するように羅針盤は狂い始める。
私の羅針盤には、人を示す機能はついていないのだ。
いままでそこに示されていたのは、そんな1人寂しさを覆い隠すための「証明」探しばかりだった。みんなが価値あるものを追い求めて、私は気がついたらよくわからない場所で途方に暮れていた。
私は頭の中で、
羅針盤を海の中へ落とした。
羅針盤は深く深く沈み、日の光すら届かない深海で粉々に散らばった。誰も作り直せず、誰も見つけられない。もし深海で動き出しても、そこに指し示すものは何も無い。
海の上で私は小さなボートに乗っている。
手には何も持っていない。
黒く汚い砂まみれの自分でだけがあって、
頬を触るとジャリッと音がする。
覆い隠すものがない日光が私の肌を焼いて、
不快な汗が頭から滑り落ちて喉が渇いた時、
私は羅針盤のことなんてもう忘れていた。
明日に向かってあるく、でも
「なんか、捻れてますね」
小太りの整体師が、私の骨盤を触りながら言った。
「はぁ、ねじれ、ですか」
「はい。なんかスポーツやられてました?捻れる感じの動作の。」
「あー…まぁ、キックボクシングとかは、大学のとき少し」
整体師は、少し高めの声に切り替わり、でしょう、そうでしょうと誇らしげに言った。かといって、キックボクシングをやったのは体験のたった1回であり、そのほかにスポーツの経験はない。その体験で、そもそも体が捻れていたからだろうか、素質はあると褒められた。たぶん営業だけど。
90分の施術が終わった。全く安くない整体だが、随分と肩周りが楽になる。終了後、再びねじれの話になって、骨盤矯正プランの営業が始まった。色々めんどくさくなって、「また後で連絡します」とだけ伝えた。店を出て、地上にあがると、外は暗かった。
私の靴は、使い古すと、右足の親指部分に必ず穴が開く。これも捻れのせいだろうか。自分の今まで意識していなかった足を、感じ取りながら駅までの道を歩く。
右足を前へ。
次に左足。
右足、左足、右、左、右。
あー、確かに捻れてるかも?
捻れている、というより、左足が思うように動いていない。感覚としては、右足が前へ前へと進もうとしているのに、左足がそれに頑張って食いついているような感じ。左足の方を捻って無理やり前に進めている感じ。
私の心みたいだ。
本当は怖いのに、怖くないふりをしている。
本当はビビリなのに、劣等感で自分を奮い立たせている。
恐怖心でいっぱいの左足と、それを認めない右足。
私の身体は、思った以上に私でできているのだ。
あぁ、怖い。人が怖い。
私は本当はとても弱い。
本当はとても、怖くて怖くてたまらない。
でも、それを認めてしまってもよいのに、
認めてしまったら、私はどのように生きたら良いのか分からない。
天邪鬼な私の性格と、
矛盾した感情と、
捻れた骨盤。
都会の夜の街を進みながら、私は駅を目指す。右足だけを頼りに、強張った体を無理やり前へ持ってくる。いつか、私と私が仲良くなったときは、靴の穴の位置が変わっているんだろうか。
このお題、個人的に過去一好きです。