秋風
子供の頃、秋という季節だけで心が弾んだ。紅葉の落ち葉が敷き詰められた道に雨が降れば、無機質なコンクリートが鮮やかな絨毯に変わる。それだけで、つまらなかった毎日が一瞬で輝き出すように感じた。秋風が吹き抜けると、冷たい空気が肺に染み渡り、澄んだ酸素が身体を巡るのを感じた。空はどこまでも高く、澄みきって、雲ひとつない快晴が私を外へと誘ってくれる。ほんのりと肌寒い気温が、冬の訪れを期待させ、子供の私はその季節のひとつひとつを心から楽しんでいた。あの頃は、ただ秋という季節だけで、生きていることが嬉しかった。
それが今の私はどうだろう。万年モラトリアム。いつまでたっても大人になれないくせに、世の中に不満ばかり並べて、自分の思い通りにいかない一日を、ただ苛立ちながらやり過ごしている。あんなに大好きだった「秋」の喜びなんて、もうとっくに忘れてしまっていた。覚えていたいことを簡単に忘れてしまい、忘れたいことだけがいつまでも頭の中に居座っている。まったく、世の中というのは理不尽にできているらしい。
父の葬式の帰り道、ふと見上げた空は晴れ渡り、紅葉が鮮やかに道を彩っていた。守ってくれる人はもういない。もう私の人生をどうにかしてくれる人はいない。皮肉なものだ。両親がいなくなってから、やっとその愛に気づいた。まるで、いざ失ってみるまで、その存在すら意識できなかったように。もっと早くに気づけていれば良かったのだろうが、こういう肝心なことには、なぜか後悔がつきまとうものらしい。今さらどうしようもないけれど。
涙で腫れた頬に、冷たい秋風がそっと触れた。その風が私の輪郭を撫でるように通り抜けると、不意に「私はここにいる」と、何の理由もなく思った。どこにも行けないこの私が、ただここにいる。
どうしようもない自分を抱きしめるようにして、無我夢中で走り出した。息が切れるまで走って、立ち止まったとき、ふと手元に一枚の紅葉が舞い降りてきた。まだ木に残るべきだったような、赤々とした不思議な葉だった。手のひらでじっと見つめると、「美しいなぁ」と思った。私は泣いた。この涙は、漸く身近な物の有り難さに気づいた自分の情けなさでもあった。
失うものを失って、私は気がついたのだ。両親がもういないという現実の中で、あの二人がどれほど私を愛してくれたかに気づき、その愛が今も私の中に残っていることを知った。
秋風が胸いっぱいに広がり、ただ「生きている」ということだけを懸命に感じた。たったそれだけが、今の私を生かしている。目頭から熱く溢れた涙が、秋風に触れてはひんやりと温度を変えていた。
24.11.15 創作-秋風
秋風という言葉、あまり馴染みがなく難しかったです。
そして今日風呂場にゲジゲジでました。怖かったです。
スリル
私の高校は仏教校だった。宗派は浄土真宗であり、通常の高校にはない宗教の時間があった。体育館には宗教の式典が行えるように、ステージの壁面には親鸞聖人が隠れている。どういう仕組みでそれが表に現れるのか知らないが、普段は一般的な体育館のステージとして化けていた。
学校の怪談といば、定番はどこになるだろう。
私が実際耳にしたものは、体育館前通路の大きな鏡、普段生徒が使用しない位置にあるトイレ、階段下の掃除用具室。そして、一際意外だったものがある。
それは、家庭科準備室と繋がった、「多目的室2」
執筆途中
ホラー
実体験なので、思い出して途中で怖くなってきた。
もっと明るい時に続きを書こう
飛べない翼 途中
私が生意気な学生だった頃、教育実習生が大嫌いだった。その感情の内訳はさまざまであるが、大部分を占めていたのは、大学生というおちゃらけた生態とその若さゆえの未熟さや初々しさが嫌いだったのだ。だから、どんなイケメンだろうが美人だろうが、くる奴は全員嫌いだった。私はいかにも、職場にいる嫌なお局上司よりも遥かにタチの悪い、未経験クレーマー高校生だったのである。
この心理はどこから来ていたのかわからない。社会人も大学生もどちらも経験した今となっては、当時の自分のような高校生がいたらぶっ飛ばしていた。高校時代の私は、ここがまさにいやらしいところではあるが、内心はドロドロと汚い感情が渦巻いていたにも関わらず、表面上では優しく明るい人間を演じていたのである。そんなん生きとる上で当たり前だろ、と言われればその通りなのだが、それを加味しても内面が荒んでいた。誰の命令も聞きたくなく、誰の指示も受けたくない、私は努力したくないのよ、そうじゃなくても私は特別なの!と叫ぶあまりにも空っぽな人格だけがそこにはあった。
なぜ、そのような女子高校生だったのかと言えば、私の人生史を辿るには、自分でもまだ時間がかかりそうなのである。落ち着かなかった家庭環境をひとずつ紐解いていっては、あまりにも要素があるのに、言葉にすれば酷く言い訳がましくなる。私はこんなに大変だったの、傷ついたの、と、理解されるように求めている自分を自覚することは私にとって酷く惨めなのだ。なぜならば、それは経験していなければ到底理解も共感なども及ぶことではないと知っているからこそ、私は傷つきたくないあまり他者に自分の経験を話せないでいた。
そんな私は、私は誰よりも子供だったのに、大人びていた。反抗期などなく、そしてその実、万年反抗期であった。私は人と比較することでしか安心できず、そして常に不安だったのである。私は私以外の人間が大嫌いで、私は私が一番大嫌いだった。
そのような自分自身と決別したのは、社会人になってからだった。世の中を恨み、文句を言い、誰よりも悪口を言った。嫌われる前に、私が周りの人を嫌いになった。人が離れた後、私はみんな消えてなくなればいいのだと思った。散々汚い感情を撒き散らした後に気がついたことは、自分がいなくなった方がはやいということだった。そこまで成り下がった後に、ようやく私は気がついたのである。なんの中身のない自分自身に。
今まで馬鹿にしていた綺麗事が、身に染みてしまう。それは、過去に自分が、いつのまにか、してしまった罪と対面することでもあった。
愛しましょう、人を大切にしましょう、なんて、私は自分のことで精一杯だから黙ってよ!と、いつもバカにしては遠ざけていた。私は内面が最低なんだから、見た目は綺麗でいないとと、外側を固めた。BMIが下がっても、二重の幅が広がっても、変化したのは呆れるほど意味のない人の目線だけだった。私の人生はむしろ、自分を隠すことに必死になっていたのだ。
自分は何をしたいのか、どういきたいのか全くわからなくなった。いっそのこと、阿弥陀籤か何かで決めたかった。いつからこんなにも人生のサイコロが間違ったのかわからなかった。自分がどうしたらいいのかわからなかった。傷つくのがただ怖かった。
私は、自分の抱える罪悪感と、悔しさと、おおよそ思いつくチンケなゴミ屑みたいなどす黒い感情に押しつぶされていたのだ。都会の人混みで私はひとりぼっちだった。
自分は1人だったことを自覚した時、私は自分に何もないことを知った。みんなにあるものが、ない、ということを私はその時初めて自覚したのである。
空っぽなこころを認めざるべく、嘘をつき虚栄心だけで生きていたことを認めた。情けない生き方をしていたのは、過去に所以するものではなく、今まさに自分自身なのだと、私は自分で納得した。
そのとき、私は自分の背中には、美しい翼などなく、小さく見窄らしく、枝のような翼しか自分には残っていないことを直視できたのである。それは剥き出しの骨のようである。手入れもされず、守られず、大人になってしまった羽。私が思うように人生を操縦できていないのは、私には十分な羽のついた翼がないことを、私が知らなかったからだった。この翼はなるべくしてこの形をしていたのである。そして、もう、自分が思うようには飛べないことを、私は知った。
飛べない翼-創作
これをもっと具体的なストーリーにした話を書きたいです。
最後はもっとポジティブにしたいです。
人って、疲れた時が本性出るとかよく聞きますが、
疲れてる限界なときって、逆に1番本性からかけ離れた別人格ですよね。最低でも生きてればそれでほんとに良いんだよなぁ…と、思いました。だって、みんな人間だから清く美しく生きる必要もないんだよね。生きるのに必死だもん。私は、未熟のまんま大人になった感じが否めないのですが、あまりにもガキな自分と共に、少しずつ大人になれるように生きていこうかなと最近少しだけ思えるようになりました。人にどうこうしたい、とかいう慈善精神はありませんが、自分の内面に心の底から自信が持てるように、人に愛情を持てる人になりたいなと最近思いました。飛べない翼というお題を見た時、カスだった当時の自分が浮かびましたが、遅くても今から始める行動や言動のひとつひとつが大きな翼になれば良いなと思います。
これを創作で書きたいなぁ。もはや創作じゃなくてエッセイになりそうだし、最近境目がなくなってきてるなぁ…
ススキ 途中
コロナも今より敏感に扱われていた時期に、私は当時付き合っていた彼氏と箱根に行った。平日だったことも相まって、観光地といっても人は少なく、乗ったバスには私たち以外誰もいない、珍しい光景だった。
無計画な人間同士の付き合いだったので、特に調べもせず箱根観光に至った。
脳裏
長女が結婚した。私が27歳の時、妻と出会い結婚したが、その時長女は13歳だった。私は会社の事業承継のため、長女と妻が暮らす地域から遠く離れた、会社の所在地で暮らさねばならなかった。
とある日、妻も会社の仕事に少し携わりたいと言うことで、私の住む地域に少しの間引越すこととなった。仕事も忙しくなり、妻も新しい子を身ごもり、活力にみなぎっていた。
長女は、住み慣れた土地が良いということでその土地に残り妻の祖父母と暮らすことになった。私は一緒に暮らすことを望んだが、方言も気候も全く違く土地柄は嫌だから、と、妻の祖父母が言って聞かなかった。
妻と、飛行機にのるため飛行場に着いた。私は長女の手を握っていた。妻は手続きのためにカウンターへ行ってくると私たちのところから離れた。妻がだんだんと遠い姿になっていくとき、ちくりと、手が傷んだ。意識か、無意識か、長女は私の手をぎゅっと爪を立てて握りしめていた。遠く去る母の姿を追いながら、長女は決して目を離すことはなかった。
それから、随分と月日が流れて長女は30歳になった。
妻がカウンターに向かって歩き去るのを見送りながら、長女の小さな手が私の手にしがみついているのを感じていた。あのとき、まだ幼かった彼女が、どんな気持ちで私の手を握っていたのか、そのすべてを理解することはできなかった。ただ、その小さな手が私の手に爪を立てているのを感じたとき、心の奥底で何かがざわめき、痛みを覚えたことは確かだった。
その痛みを振り払うように、私は新しい土地での日々に没頭し、家族のために働き続けた。だが、仕事に追われる中でも、長女の小さな爪が私の手に食い込んだあの感覚が、たびたび脳裏に浮かんでは消えた。彼女がどれほどの不安と寂しさを抱えながら私を見送っていたのか、それを知るには、あまりにも自分が鈍感で、親としての務めを果たせていなかったのではないか。あのとき、彼女の心をもっと理解しようとするべきだったと後悔の念が募っていった。
年月が流れ、長女が大人になった今、彼女は自分の家族を持つことを決めた。彼女の成長を誇りに思い、心から祝福する一方で、あの飛行場で爪を立てた幼い彼女の姿が、いまだに私の脳裏に焼き付いている。彼女はもう自立し、自分の人生を歩む立派な女性になった。しかし、父としてあの日の無言の訴えを受け止められなかった自分を思うと、心のどこかでいまだに懺悔の気持ちが消えない。
もしあのときに戻れるなら、もう一度あの小さな手を優しく包み込み、「君からお母さんを離したりしないよ」「お父さんも君のそばにいるよ」と伝えてやりたかった。そうすることで、少しでも彼女の不安を和らげられたのではないかと、今でも悔やんでいる。その悔いが時折、私の心を締めつけるように浮かび上がり、深く胸に刻まれている。それは脳裏に消えることなく残る、父としての消えない罪だと思っている。
24.11.09 創作-脳裏