君の名前を呼んだ日
若いころ、恋愛をするたびにいつも思っていた。
この人は、顔のここがいい、とか、
学歴とか、キャリアとか。
だって、それは、私に自信がないから。
顔だってイマイチで、勉強も、全然得意じゃない。
強いて良さを言えば、負けず嫌い。だけど、負け好きの人間なんて、いるのかしら。
そんな私だから、恋愛なんてもちろんうまくいかない。
恋愛どころか、パートナーシップ全てがうまくいかない。うまくいくわけがない。原因は自分にあることなんてとっくにわかっているけど、私は傷つきたくないし自分を認めたくないの。それぐらいなら、いい遺伝子でも残して、1人になってもいい。一生この罰と罪悪感を背負ってでも、私はこれから産まれてくる私の子どもに、私の存在を相殺させるものを引き継ぐんだから。
そんな不健康なことを、毎日考えていた。
それなのに、私は同時に、こんなことも考えていた。
女の子が生まれたら、「紅葉」がいい。秋に生まれたら、もっといい。紅葉が、私は1番すきだから。でも名前なんて、なんでもいい。意味なんて含めなくていい。いちばん軽やかで、無意味なことが、きっと価値があるから。
私は、大きく膨らんだお腹を撫でながら、ひとり、過去に散々考えてきたことを思い返していた。
でも、きっと。私はこの子にも、重い重い十字架を背負わせながら生かせてしまうのだろうか。他人と比較して、勝つか負けるか、損なのか得なのか。そんなことしか、言う事ができないのだろうか。
あれほどまでに誓った、「私のような人間は子を望んではいけない」という強い想いとは裏腹に、いつも私は、1人でも子供を育てられるように、子どもを産めるように、という根底の願望に逆らえずに生きてきた。そのために、生きるように、してしまった。私はいろんな感情がぐちゃぐちゃになって、涙が出てきた。
ただ、嬉しい、という気持ちだけは、本当だった。
心だけ置いていく毎日に、時間はいつも通りすぎていった。
横には、産まれたばかりの娘がいる。
私は、娘の名前を呼んだ。
娘は、特に反応せず、すやすやと眠っている。
ただ、娘の名前を声に、音にだしたとき、
世界が天国の日差しのように暖かく包まれていると思った。
昨日と違う私
月一のまつげパーマと、眉毛ワックス、髪も整えて、完璧。昨日の見てられない私は、今日、結構見てられる私になった。
「変わったね」
それが何よりの褒め言葉だ。
忌々しい思春期の中学時代なんておさらば。
あの時の地獄なんて、もうない。
あの頃の私は死んだのだ。
私は金をかけた容姿のまま、家に帰った。
空は晴天なのに、
買い物すらいかなかった。
香水は、最初の香りが弾けて、甘ったるい重めの香りが部屋を充満させている。
私はテレビをつけた。
チャンネルを次々と変えて、
「なぁに、おもしろくない」
と適当に悪態をついた。
そろそろ、もう、配信アプリでドラマでも見ようかなと思ったとき、
昔見ていた野球アニメが流れた。
なんでこんな不自然な時間に。と思ったら、
夏休み特別企画、と、番組情報に書かれていた。
ま、これでいいか、とその懐かしいアニメをつけたままにした。アニメなんて、何年ぶりだろう。
私はそうめんを茹でて、適当に麺つゆを薄めた。
卵を入れて、七味をかける。これが最高。
私はズルズルと麺をすすった。画面には、知っている内容の話が進んでいく。
ワンシーズンが終わり、
気がつくと、夜になっていた。
あれ、面白い。
あれ、わたし、これ、
「すきだわ」
と、つぶやいた。
誰もいない1Kに、声は溶けていく。
私は右手にある全身鏡に目を向けた。
整えられた眉とまつ毛と、艶々の髪を触った。
よかった、私はあの頃から変わっている。
毎日、毎日、私は少しずつ変化している。大丈夫。
だけど、これでもう見れないエンディングの歌が
酷く名残惜しかった。
「なんにも、変わってないね」
私は胸の高揚を感じていた。
誰にも見られていない、
誰にも感じられない、
誰にもわからない、
密かな私の「こころ」は、
あの頃の私が今でも私の中に存在していることを
証明していた。
酸素
「あらぁ、この部屋、酸素がなぁい」
背後から聞こえたすこし甲高い女の声に、私は苛立ちを覚えた。私はこいつが嫌いだ。本来であれば、こんな嫌いな奴を家に上がらせるつもりは微塵もなかった。
「はぁ?」
意味わかんないこと言わず、黙ってろよ、と内心で毒を吐きつつ、私は自分の部屋に探し物を続けている。
「いき苦しくなぁい?」
私はファイリングしていた紙を、咄嗟に数センチ破いてしまった。「あ、やらかした」という感情よりも、意味不明な発言を繰り返す女の締まりのない声への苛立ちが体の筋肉にまで伝わろうとしていることに少し焦りを感じている。
「ねえ、あのさ」
私は少し低めの声で呼びかけて、振り返った。「ん?」という、これまた鳴き声のような音を発しながら、この女____こと、眞鍋は私の顔を見ていた。
「なぁに、雪ちゃん、こわい」
「雪ちゃん」とは、私のことである。富田雪子。大学で知り合って、そんなに仲良くないはずなのに、眞鍋ゆかりは私の線引きを簡単に超えて、こちらのリズムを崩してくる。
「あんたのその、うざったい話し方どうにかしてよ。それとさ、酸素ないとか、訳わかんないこと言わないで。腹立つから」
それ、天然キャラ?と最後に吐き捨てて、私は複数のファイルを眞鍋の前にあるテーブルに置いた。
「だって……酸素、ないんだもん」
「ねぇ、ほんとにだるい。人ん家来といてわけわからないこと話さないでよ。ゼミの研究発表一緒じゃなきゃあんたなんて家呼ばないんだから」
眞鍋は、私の冷たい言葉は然程気にも留めない顔で、部屋に満遍なく視点を投げていた。
「なんか、よそ行きの部屋、って感じ。生活感がなくて、雪ちゃんそのものだね」
私はイライラしている。眞鍋に苛立ちを覚えている、というよりも、私に怒りという感情を露呈させる眞鍋に対して怒りを感じている。
「どういう意味?」
複数のレジュメを整理しながら、私は眞鍋に聞いた。
「雪ちゃんの、SNS見たまんま、みたいな部屋」
「当たり前でしょ、この部屋載せてんだから」
私は小馬鹿にされたような気分になった。好きにさせてよ、部屋くらい。この部屋だって、色々見て私が集めてきた結果のもんなのよ。
「え〜、じゃあ、本物の雪ちゃん、どこ?」
「は?」
私は眞鍋と目も合わせない。睨みそうになるからだ。
心を無にして、複数の資料にホチキスを止める。
眞鍋は、資料にマーカーを引いたり、誤字脱字を確認しているみたいだった。
「ねぇ、ほんとにイラつくよ、あんたとの会話」
「雪ちゃん、どこで酸素吸ってるの?」
いい加減にしてよ、と、顔を上げた時、眞鍋はいつになく真剣な顔でこちらを見ていた。
「………なに?」
「雪ちゃんって………カップラーメン、ベッドの上で食べたりしないの?」
すこし真剣に捉えた自分に落ち込んだ。私何を期待していたんだ、この女に。
「しないよ」
しねーよ、ばーか。という喉まで出ていた音を堪えた。さっさと作業に集中して、一刻も早くこの空間を終わらせるべきだと思った。
「へぇ!しないんだぁ。私、するよ」
「あっそ、あたし、不潔なの嫌い」
未来への船
「一生を終えてのちに残るのは、我々が集めたものではなく、与えたものである」
三浦綾子氏の小説にある、この言葉が、好きだ。
今ある悲しみ。
結構変わり者の母親。
家族の病気と、
過去のトラウマ。
それに付随した劣等感と、
それを直向きに覆い隠したいという、
欲と散財。
一生を待たずして、
私が手に入れている全てのモノは、
流行とともに失っていく。
次へまた次へと欲のまま消費することしか頭になくなる日もある。
でもたまに、冒頭の言葉とともに思う。
私は親を選ぶことはできないが、
まぁたぶん、この親の子供をやれるのは、
きっと私ぐらい、なんじゃないかなと。
私は私の子を産む気もその予定もない。
その資格も、きっと、ない。
長い長い長い、歴史の中で、
教科書にもどこにも名ものこらない私の人生は、
非常にちっぽけであるからこそ、
何の惜しげもなく、人を愛して良いのだと、
そう許可されている。
肩書も、人の目線も一切関係ない、
私だけの人生だから。
ちっぽけな人生だから、
私は人を、
心から大切にしてよいのだ。
いつか、どこかの空の上で私を見ている「だれか」が、
仕方ないなぁ、って、降りてきてくれるかしら。
夢を描け
栗色の髪をした、白いファーのついたコートを着た女がスマホを見ながら話している。ネイルはない。
彼女は当たり前のように、私のレジュメをパシャリ、パシャリと撮っている。
話の内容は、最近彼氏がどうとかこうとか。12月にもなって、未だに自分の故郷の訛りが消えないのはわざとかどうなのか。こんな些細なことにイライラしている態度を我慢できずに出してしまう私の方が、何倍も幼かった。「まぁかわいいし、いいか」という、よくわからない納得のもと、空を見上げる。
そういうとき、こんなことを思い出す。
顔がいい人は性格もいい、というのは、人との関わりを限定されている学生時代によくあるものだ、と知人が言っていた。自分の欠点を補いたいから、美しいものに憧れて、勝手にその人は性格も良いのだ、と思いたくなってしまうらしい。その話を聞いた時、こんなことを思い出した。普段はかなりストレートに物をいう同級生の男が、「あの子は美人だから性格もいいな」と言っていたのを聞いたことがある。デリカシーのない人間の言葉は、時に本質や真実を語られているかのように錯覚するのは、強い言葉に弱い自分が支配されるからだろうか。その男の言葉を、適当に同意したのちに、女子トイレでその「美人な女」がいた。その女と、その女を取り囲む女たちの視点が向けられており、そこには一つのスマホがあった。ついでに声をかけられた私は、中を覗いた。そこには、同じクラスメイトの女子の「そういう動画」が、あった。生々しかったので、一瞬で脳裏に焼きついた。「美人な女」の手に持ったスマホから流れる「裸の映像」から、「美人な女」の顔を段々と見上げると、やっぱりそこには「爽やかな美しい女の顔」だけが、あった。私は動画から小さく流れる高めの声をききながら、先ほど聞いた「あの子は美人だから性格もいいよな」という言葉を何度も頭の中でリピートしていた。
大学に入って、顕著に感じたことがある。
同年代と話す会話は、ほぼ男か、服か、インスタの他人の関心しかない。あとは悪口。本来であれば、高校時代とかもっと早めに感じることかもしれないが、私は大学からだった。共通の話題も少ない、浅い関係。同じ履修で、みんなこのうっすい上っ面の関係に疲弊しつつ、死ぬほどどうでもいい話題と大して興味のない話題について話す。鯉や金魚が餌を乞うように、呼吸ができずにあくせく必死についていっているのは、私しかいない。みんな当たり前のように悪態をつき、嫌味を言い、褒めながら、それでも「自分」を存在させているのに。私は、いつも何かを「間違っている」ように感じていたのだ。だんだんと自分が染まって、攻撃的になって、家でも呼吸がしづらくなったとき、私はいつも高校時代、「そういう動画」に出ていた同じクラスの女のことを思い出す。彼女は、今、何をしているのだろう。
そういう日々を続けていたら、
私は、私が何を好きで何を好きではないのか、わからなくなっていった。他人を批判する度合いだけ、自分がしたいことを制限されていった。
私が未来に期待し、喜びを感じるものは、
私がかつて否定してきたことばかりだった。
そうだ、私は、どうして。
どうしてあの動画を見たとき、「やめなよ」って、言えなかったんだろう。
どうして、私は。
どうして私は、自分が感じたとことを、あのとき否定しまったのだろう。
ただ同時に、思うのだ。
自分もまるで汚い人間だというのに、
人を責めて潔白を示そうとしているのではないか。
他人を責める度合いだけ、私は私を責めることになる。
最低な自分も自分は間近でよく見てきたというのに、
私は、私は、私は。