hikari

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11/9/2024, 2:27:17 PM

脳裏

長女が結婚した。私が27歳の時、妻と出会い結婚したが、その時長女は13歳だった。私は会社の事業承継のため、長女と妻が暮らす地域から遠く離れた、会社の所在地で暮らさねばならなかった。
とある日、妻も会社の仕事に少し携わりたいと言うことで、私の住む地域に少しの間引越すこととなった。仕事も忙しくなり、妻も新しい子を身ごもり、活力にみなぎっていた。
長女は、住み慣れた土地が良いということでその土地に残り妻の祖父母と暮らすことになった。私は一緒に暮らすことを望んだが、方言も気候も全く違く土地柄は嫌だから、と、妻の祖父母が言って聞かなかった。

妻と、飛行機にのるため飛行場に着いた。私は長女の手を握っていた。妻は手続きのためにカウンターへ行ってくると私たちのところから離れた。妻がだんだんと遠い姿になっていくとき、ちくりと、手が傷んだ。意識か、無意識か、長女は私の手をぎゅっと爪を立てて握りしめていた。遠く去る母の姿を追いながら、長女は決して目を離すことはなかった。

それから、随分と月日が流れて長女は30歳になった。

妻がカウンターに向かって歩き去るのを見送りながら、長女の小さな手が私の手にしがみついているのを感じていた。あのとき、まだ幼かった彼女が、どんな気持ちで私の手を握っていたのか、そのすべてを理解することはできなかった。ただ、その小さな手が私の手に爪を立てているのを感じたとき、心の奥底で何かがざわめき、痛みを覚えたことは確かだった。

その痛みを振り払うように、私は新しい土地での日々に没頭し、家族のために働き続けた。だが、仕事に追われる中でも、長女の小さな爪が私の手に食い込んだあの感覚が、たびたび脳裏に浮かんでは消えた。彼女がどれほどの不安と寂しさを抱えながら私を見送っていたのか、それを知るには、あまりにも自分が鈍感で、親としての務めを果たせていなかったのではないか。あのとき、彼女の心をもっと理解しようとするべきだったと後悔の念が募っていった。

年月が流れ、長女が大人になった今、彼女は自分の家族を持つことを決めた。彼女の成長を誇りに思い、心から祝福する一方で、あの飛行場で爪を立てた幼い彼女の姿が、いまだに私の脳裏に焼き付いている。彼女はもう自立し、自分の人生を歩む立派な女性になった。しかし、父としてあの日の無言の訴えを受け止められなかった自分を思うと、心のどこかでいまだに懺悔の気持ちが消えない。

もしあのときに戻れるなら、もう一度あの小さな手を優しく包み込み、「君からお母さんを離したりしないよ」「お父さんも君のそばにいるよ」と伝えてやりたかった。そうすることで、少しでも彼女の不安を和らげられたのではないかと、今でも悔やんでいる。その悔いが時折、私の心を締めつけるように浮かび上がり、深く胸に刻まれている。それは脳裏に消えることなく残る、父としての消えない罪だと思っている。

24.11.09 創作-脳裏

11/8/2024, 1:10:43 PM

意味がないこと


私は、
意味がないことや無駄なことを嫌うタイプの人が嫌いだ。

タイパ、と言う言葉を見るとゾワゾワしてくるし、
ひと暴れしたくなる。

これは単なる好みの話。

無駄を無駄として毛嫌いしたり、
意味がないことを否定したり、
その根底には損得勘定が働いている。

損得勘定は、何を考えるにしても重要ではある。
会社の売り上げ、人間関係、立ち振る舞い。
私の前職といえば、モロ経営分析に関係するような職業だったので、損得・損益を考えることは人生の舵を取る上でも大切な観点と知識であることを当時は色濃く認識していた。

前職の職場に限らず、ありふれている、無駄なく、卒なく、そこに意味を成し得ないことを嫌う人たち。

仕事をする上で、そういう思考は身につけておくべきことなんだと思う。

だけど生きていく上で必要なことは、意味がないことの積み重ねなんじゃないかと思ったりする。無駄にすぎる時間も、しょうもない恋愛も、人生の指針にもよるけど大体意味はない。けど意味もなくて、価値もないものは、「私」を生かす重要な項目であることには間違いない。それはまさしく、「感情」であり、感情を尊重することはすなわち、自分を愛することと同意義であると私は思っている。

器用に生きる人もいれば、不器用にもがく人もいる。人生の荒波がない人は、たぶんそういう人生なんだと思う。器用に美しく生きられる人もよし、不器用で情けない人も、それはその味しか出せない魅力がある。きっと、その魅力に気がつくためには、いくらか自分の意味のなさを許容してきたかにあると思っている。

24.11.08 - エッセイ 意味のないこと

11/7/2024, 3:25:55 PM

あなたとわたし

母子癒着、という言葉を知ったのは25歳の時だった。
親身に話を聞いてくれたカウンセラーが、少し申し訳なさそうに言うのだった。「こんな厳しいことをね、いうのもね、なんだか申し訳ないのだけれど…」という前置きを置いて。

カウンセラーはわたしの母よりも10歳ほど下の女性だった。彼女が経験してきたことは、私とひどく似ていてとてもただの他人とは思えなかった。彼女は先ほどの前置きの後に一つ息をついて、いった。

「あなたとお母さん、『癒着』してるんですよ」
「ユチャク?って、癒着?」


途中保存

眠い。眠すぎる。

11/4/2024, 4:34:18 PM

哀愁を誘う

哀愁を誘うもの
大分むぎ焼酎二階堂のCM。
わたしはこのCMが好きでYouTubeで何度も検索して観ている。
特段人に話すようなことでもないが、
それなしでは生きていけないもの。
そういうものが知らないうちに集まって、
それがわたし。



あーあのCM作ってくれた人、ありがとう。
哀愁漂うもの、だいすきです。

11/3/2024, 3:03:55 PM

鏡の中の自分 

私には嫉妬する層がいる。それは、ストレートな人間。容姿、部活、職業、家族。全てが、可もなく不可もなく持っている。外見も平均、学力も平均、身体能力も平均、会社員勤めで25-28歳あたりで結婚する。女性であれば、女性性を表面上は強く持ち、内面はしっかりした内向型の人が多い。男性は落ち着いているが、スポーティな印象。当たり障りのない性格と、コミュニケーションを持ち、誰も貶すことなくはははと笑える協調性。興味のない異性にも不快にならず対応し、同性にはかわいいポジションとして仲間に入る。人畜無害を極める。また、レールから外れた人間と話す時は、顔を片方少し引き攣らせながら優しく対応する。万物に対応しつつも、決して、ストレート以外は受け止めていない人。

そのような人は一定数存在する。どこの学校でも職場でもいる。不器用な側の人間としては、そのような人と出くわすたびに器用に生きることに尊敬する。また、とても嫉妬する。私も受け入れることもなければ、受け入れられることもない。

きっと、目の前に親から相続した資産家が現れるより彼らがいた方が私の心は乱される。宝くじを何億と当てた人間よりも心を乱される。彼らが涼しい顔で成し得ているものが、日々の細やかな努力の上に成り立っていることを、不器用な私は知っている。


鏡の中の自分に映るのは、いつも少しだけ歪んで見える存在。彼らのように「ストレート」には生きられない、少しねじれた自分だ。鏡の前に立つたび、そこに映る自分が本当に自分の一部なのか、それとも、自分が抱く「ストレートな人々」への反発や憧れが作り出した幻なのか、疑問が湧いてくる。

私は彼らの生き方に憧れながらも、どこかで抗っているのだろう。自分の中の「不器用さ」が、どうしようもなく強く染み付いているから。自分の「歪み」や「ねじれ」を引き剥がそうとしても、それは無理なのかもしれない。逆に、それを「自分」として受け入れることが、私にできる唯一の方法かもしれない。

とはいえ、日常生活の中で何度もストレートな人々と出会うたび、その「鏡」はひび割れていく。彼らと自分の間に広がる、見えない透明な壁。それはどこから来たのか、いつから存在するのか、はっきりとはわからない。だが、その壁があるせいで、彼らと目を合わせても、心の奥底では通じ合うことがないと感じてしまう。まるで鏡越しに見ているかのような、届かない距離感がそこにはある。

この鏡の中の自分を、ただ見つめ続けるだけでは、きっと何も変わらない。自分が歩んでいる道が「ねじれた道」であるならば、そのねじれをそのまま「私の道」として生きていくべきなのだろうか。それとも、鏡の向こう側にいる「ストレートな彼ら」のように、少しずつでも「まっすぐ」になろうとするべきなのか。

鏡に映る自分が、私に問いかけている。

24.11.04-創作-鏡の中の自分

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