hikari

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友達

大学に入って私は初めて友達ができた。

高校まではそれなりに連む同級生はいたが、友達かと言われると微妙だった。

友達の基準はなんだかわからないし、
明文化しているわけではない。

だが、大学に入ってから確実に私は友達ができたという感覚があった。

こう言うのは個人の感覚に任されるものだが、
安心感が違う、というのが一番大きい。
それはその友人自身の器量の大きさもあるが、
それとはまた別に、忙しくて特に連絡しないときであってもひとつの連絡で直ぐに元の関係に戻り、私がおかしなことを言ってもそれを話せる。また、私も、友人がしばらく連絡がなくともいつでもそのタイミングを待てるし、どんな話でも受け入れられる確信がある。

この謎の確信と自信はほぼフィーリングのようなものではないかと思う。実際私と友人は、マンモス大学で苗字が隣で意気投合、その後も健康診断で後ろに並び偶然出会ったと思えば同じ語学クラスという奇跡の連続だった。なんとなく放課後浅草行く?と声をかけてみたら、あまりにも生い立ちが似ていて生き別れの姉妹?と疑うほどだった。

話が戻るが、この安心感は、誰でも出せるものではない。友人に限らず、人間関係を築く一つの要素としてかなり重要だと認識させられた。

昨今では、幼馴染効果が凄まじく、
生まれた地域や共に育った人間との関わりが最重要かのように語られる節があるが、私は真っ向から否定派である。
正直、地元なるものは親が決めた地域でしかない。それよりも、自我を持ち、自分が考えて決めた場所で、出会い、価値観を共有した相手の方がよっぽど深い関係になる。友達の価値基準を年月に置くのは、もっと人生の後半でもよいのではと予測している。

まぁ、たまたま私の人生はそう感じただけで、
幼馴染に奇跡的な出会いをした人もいるかもしれないけど。

この「友達」ひとつとってもさまざまな価値観と論争があり、中でもステレオタイプのようなものは影響力が強く頭を抱える。何事においても、自分はどうであるかが大切なのだと気付かされる。

10/25/2024, 5:47:08 PM