hikari

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紅茶の香り 

新宿ルミネの1階に紅茶の専門店がある。
紅茶といえば、ホテルの付属品を全て掻っ攫っては自宅で飲む程度の嗜みしかしらなかった。職場で東京都生まれ東京都育ちの生粋のお坊ちゃまおじ様から、冒頭の紅茶をいただいた。なんとなく仕事の帰りに寄ったところ、5,000円以上という金額に驚愕し、いそいそと自宅で箱を開けた。

紅茶の香り、に限らず、ワインやコーヒーなど飲料に関しての香りの区別は全くわからないタイプの人間だった。そもそも、私の育ちといえば商売人の娘であったのでゆっくりと食べ物を嗜むという感性がなかった。家族は馬車馬のように働き、ワークホリックとはまさにこのことかと学んだ。休んでいる日はなかった。父親からは「自衛隊は5分で食べるんだ」と叩き込まれていた。心の奥底で、お前自衛隊ちゃうやろ、という意見は喉までつかえていたが言うのをやめた。因みに親族に誰も自衛隊はいない。まじでなんだったんだ。

そういったわけで、おしゃれなカフェですら、1分でコーヒーを飲み干し、クッキーをバリバリと3秒ほどで食べ、滞在時間わずか5分で退店するような、人生の何かを欠落した女が出来上がったのだ。

しかし、手元にある紅茶は、ゆらゆらと湯気を漂わせながら優雅な香りを部屋に撒き散らしていた。「まぁそんな焦らんとゆっくりしときや」というエセ関西弁を話すバニラの妖精が私に語りかけているようだ。目の前の紅茶には、こんな私ですら「香りがすごい」という感想が脳に浮かばせるほどの威力を持っていた。さすが、職場のおじ様は東京の駅前の地主であるだけに、感性が研ぎ澄まされている。

香りは、バニラの香りだった。

バニラなんてアイス以外も味わっていいんですか?とくだらないことを考えながら、紅茶に湯を注ぐ。
100度にちゃんと設定しろと職場のおじ様に釘を刺されたので、言われた通りにした。

恐る恐る口元に近づければ、その甘い香りに軽く脳震盪を起こし、意識を戻して紅茶を口に運んだ。
当たり前と言われれば当たり前だが、甘くはなかった。
きちんとしたバニラの香りに、深みのある紅茶の味が口いっぱいに広がった。何度の湯であっても数秒で飲み干す強靭な舌ですら、この紅茶を楽しみたいと主張していた。

そのくらい、味と香りが美味しかった。

口に入れるものはおおよそ栄養補給他ないと考えていた私にとって、この紅茶の一杯は人生の革命だ。
香りを楽しむとはこういうことなんやで、と、バニラの妖精は私に語りかけるのだった。

折角このような紅茶をいただいたなら、
お洒落な容器でも買おうかしら、いや、紅茶似合うお菓子を小田急デパ地下で買ってみようかしら…なんてことが脳内に浮かんできた。間違いなく今まで働いていなかった脳の部分が活発に動き出している。あれ、なんか、私ワクワクしてる?下手な自己啓発本より人生に良いんじゃないかこれ。

私は1杯の紅茶をなるべく時間をかけて味わった。
長年咀嚼をしなかった罰か、それでも数分であったものの、間違いなく時間は伸びた。

別に食事は長けりゃいいってもんでもないと思うが、
私はこの紅茶の魔法に少しでも長く陶酔していたかった。

10/27/2024, 12:15:59 PM