広い屋敷の敷地内の一角、離れと呼べる場所に小さな部屋があった。
獣人だからそこに追いやられたわけではない。
家主はもっと立派な自室を用意しようとすらしたが、狼は自ら好んで気後れしないその部屋を選んだ。
そして彼はその部屋で、少年から青年へと成長していった。
小さな部屋は今、夜の帳に包まれている。
柔らかな月明かりと、微かな甘さが部屋に優しく香る。
ベッドの上には、長い黒髪の美しい少女が横になっていた。
静かな寝息と穏やかな寝顔。
時折こぼれる安心したような微笑みは、隣でその寝顔を眺める彼の胸を甘く疼かせる。
年頃の男女が同じベッドにふたりきりである。
普通なら、何も無いはずがなく──
「……いや、なんもねぇンだけどな」
枕に頬杖をつきながら狼は独りごち、自分たちの“普通ではなさ”に苦笑した。
少女がこうして偶に狼の部屋で眠るのは、子どもの頃からだ。
『あなたと一緒に眠ると、怖い夢を見ないの』
そう言われて拒めるはずも、今更男の部屋に来るってことはどうこうだなんて世間一般の理屈を通すつもりにもなれなかった。
そして何より、彼女にとって心休まる存在であれることが、狼は嬉しくて仕方ないのだから。
「……夜が明けちまうなぁ」
言葉通り、空が白みつつある。
飽きもせず少女の寝顔を眺めながら、揺れる尻尾とともに狼はひとつため息をついた。
あなたの小指とわたしの小指を、赤いリボンで結んでみる。
なんだか不思議なくらいドキドキしてしまった。
手なんて何度も触ってるし、繋いだこともたくさんあるのにね。
「なんだこれ? 新しい遊びか?」
「えっと……おまじないみたいなものかな。大好きな人とずっと一緒にいられる、おまじない」
「……ふーん」
「あっ。邪魔だったらすぐ外すね。ちょっとやってみたかっただけなの」
恥ずかしくなってきて慌ててそう言ったわたしの頭を、あなたは撫でてくれた。涼しい目元が優しく細められる。
「別にいーよ。今なんかしてるってワケじゃねーし。暫くこのままにしとくか」
「う、うん」
「それに心配すんなよ。お嬢にお役御免だって言われるまでは、俺はちゃんとお嬢の傍にいるからさ」
「……。……うん」
ああ。またこの言い方だ。
最近、あなたはよくこんなふうに言うの。
まるでわたしがいつか、あなたを要らないって言うみたいに。
そんなわけないのに。ずっとずっとそばにいてねって、ずっとずっと言っているじゃない。
それとも、わたしのことがイヤになっちゃったのかな……。
「どした?」
「……ううん」
わたしは不思議そうに瞬きをするあなたに微笑みかけて、それからリボンを結んだ自分の小指をキュッと握りしめた。
獣人は、差別されてはならない存在であると。
各国の法律、行政の条例、その他保護団体等。獣人の権利を守る為の仕組みはこの世界に多数存在していて、表向き彼等は普通の人間と区別されず、様々な事柄において差別は禁止されている。
しかしそれは裏を返せば、獣人が人間と同じ扱いを受けていないという証左でもある。
犬であれば聴覚や嗅覚に優れ、猫であれば身体が柔らかく跳躍に優れている。馬であれば長距離を軽々と走ることが出来る。
混じる獣特有の身体能力に秀でている者が多く、唯の人間でしかない者たちからすればそれら種族が結託する可能性は脅威であり、あってはならないことだった。
とある地域では獣人は“神の御使い”と崇められたこともあったようだが、より多くのとある国では“神に背き罰を受けた者たち”とされた。弾圧、そして奴隷化の歴史。詳しくは語っても心良いものでは無い為、割愛しておくことにする。
──どうやら彼も我が家に偶然転がり込むまでは、およそ人間扱いされた生活は送ってこなかったようだ。
ましてや彼のように獣人の血が濃く発現した者はその希少性から、裏社会の者に捕まれば閉じ込められ飼育され、高値で取引されることもあるだろう。
輝くような銀髪の隙間から生える狼の耳。感情で動くふわりとした大きな尻尾。赤みがかった金色の瞳は切れ長につり上がっていた。そして未だ幼いのもある、実に愛らしい容姿をしている。年齢は分かり難く本人も「数えていない」とのこと。だが、恐らくは十歳前後だろう。
本来なら彼のような“迷い獣人”は獣人保護団体に連絡の後、然るべき“更生施設”で戸籍登録や社会復帰の為の勉学や労働への支援を受けるのが通例。通例なのだが……追々記述していこうと思う様々な事情により、彼は我が家にて私たちと共に生活することになった。
彼が屋敷に来てからというもの、引っ込み思案だった娘はよく笑うようになった。彼を守って世話をしているつもりのようで、懸命にテーブルマナーを教えたり、読み書きの練習を手伝っているところをよく見かける。
彼が鬱陶しく思っていなければ良いのだけれどと心配だったが、垣間見える満更でもなさそうな表情を見て少し安心した。お互いに良い影響になってくれればと思う。
彼を捕獲していたらしい獣人売買組織については、夫が仕事の合間に調査を進めている。買い手には多くの富裕層が存在するようで、簡単には片付きそうにない。
早く彼が安心して、自由に街を歩ける日が訪れることを願う。
───────
( A mother's notes, somewhere not here.)
しょーがねえだろ、守りたいと思ってしまった。
淡いピンクオレンジのバラが大好きな、可愛い彼女。
焼きたてのクッキーみたいな甘い笑顔が愛しいと思ってしまった。
「……金持ちのお嬢様なんて、のほほんと楽に暮らしてるんだと思ってたんだけどなー」
俺はため息とともに、光降る庭で安心したように眠る小さな体に寄り添う。
もうすぐ夕方だ。
寒くないように大きな尻尾で包んでやる。
俺にできることなんて、これくらいだ。
もし俺が人間だったら、もっと……。
彼女に出逢ってから、考えてもしょうがないことばかり心に浮かぶようになってしまった。
らしくねえなあ。
ああ、ほんとに、クソッたれ。心の中で舌打ちする。
ここ数日どこのゴミ箱を漁ってもろくな食べ物が見つからず、空腹のあまりつい闇夜に紛れることを忘れてしまった。
背後に迫るガラの悪い男たちの怒号。複数人の足音。捕まったら終わりだ。今だけはこの目立つ大きな尻尾や耳が忌々しい。
走って、走って、なけなしの力を振り絞り目の前の高い柵を飛び越えた。
転がり落ちた先はどこかの金持ちの庭のようで、花の香りが漂っていた。
綺麗に整理された芝生、つる薔薇のアーチの下には寛げそうなベンチが置かれていた。降り注ぐ柔らかな陽光すら、この庭の為の特別仕様になっているかのようだ。
俺は仰向けに寝転がったまま、天国にでも迷い込んだのかと錯覚した。
泥だらけで空腹に痩せ細った薄汚い姿は、この場所にはあまりにも不釣り合いのように思えた。
それに、落ちたときに脚をやったみたいだ。捻挫か、それとも折れたか。さすがに一歩も歩けそうになかった。
「……終わりか」
ぽつんと空に呟いた後に思った。
別に、俺がここで終わったからって誰が困るって言うんだ。俺を売ろうとした汚ねえヤツらか、俺を買おうとした気色の悪い金持ちか。だったらざまーみろ、だ。
薄い笑いが口元に浮かんだ、そんなとき──
「……だれか、いるの?」
存外近くに聴こえた幼い声に、俺は肩をビクつかせた。咄嗟に唸って威嚇しようと半身を起き上がらせるが、その小さな姿を見た途端、俺は全身の力が抜けていくのを感じた。
肩のあたりで切り揃えられた艶々の黒髪は、水色のリボンで飾られている。くるくると丸い青灰色の瞳。花柄のレースで飾られた高級そうなワンピースは、間違いなく目の前の女の子がこの屋敷の子どもであることを示していた。
「おい、近づくな。俺は悪いヤツかもしんねーぞ」
我ながら何言ってんだ、と自嘲したもんだ。
わざわざ脅しかけたりしなくたって、この子はあと数秒もしないうちに逃げ出して、大人達を呼びに行くだろう。そうして俺は、この庭からつまみ出されてお終いだ。
けれど、女の子は逃げ出すどころか俺におそるおそる近づいてきた。
「けがしてるの?」
舌足らずな甘い声。
頷いて返事をすると、小さな手のひらが躊躇いがちに伸びてくる。子ども特有の温かい体温が、俺の髪を優しく撫でさすった。
「よしよし。よしよし……いたいの、いたいの、とんでけ」
そう言って心配そうに見つめる彼女を、俺は食い入るように見つめ返した。
そんなことで痛くなくなるわけないだろ。そんなことより、もう何日も風呂なんて入ってない。俺なんかに触ったらこの子の綺麗な手が汚れてしまう。そんなことばかりが気になって。
「あ、あのね。おにいちゃん、おなまえは?」
「……────」
思わず素直に答えてしまう。銀色の髪だから……誰がつけたのかもわからない、安直な名前だった。
「わあ、かっこいいね。すごく、つよそう」
「別に……」
彼女が口にするとつまらないと思っていた名前も特別な響きをもって聞こえてきた。何だか急にいたたまれなくなって視線を逸らしていると、気が抜けたのか腹が思いっきりぐるるると鳴った。
「おなかすいてるの? あのね、クッキー、たべる?」
小さなポシェットの中から布に包まれたクッキーが何枚か取り出された。香ばしい小麦とバターの香り。もう何日も水以外口にしていなかった俺は、余裕なく奪い取るように口に含んでしまった。濃厚で甘い味わいが口いっぱいに広がり、つい大きな尻尾がバフバフと揺れてしまった。
「わ。……えへへ。よかったぁ、おいしいね」
まるで自分のことみたいに、彼女はふにゃりと嬉しそうに笑った。
思えばこのときには既に魅せられていたんだろうか。いやいや、そんなワケ。ないか。あるか……?
ともかく、この出逢いから10年以上ずっと、お嬢は俺のお姫さまで、女王さまで。
それから、俺の大切な……